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2009年3月31日

さらばホンダF1!僕の卒業式が終わった

 メルボルンから帰る飛行機の中で、この原稿を書いている。本当に久しぶりのブログ更新だ。本当はもう少し早くアップしたかったのだが、開幕戦のオーストラリアGPを見終わってから自分の気持ちを整理するのに、少しだけ時間が必要だった。

Chinpan.jpgシャンパンファイトで笑顔を見せる優勝したブラウンGPのバトン(右)と2位のバリチェロ(AP)

 去年の12月にホンダがF1からの撤退を発表して以来、次々といろんなことが起きて、どうにもポジティブな気持ちになれないでいた。世界経済は悪くなる一方だし、日本の自動車メーカーは次々とモータースポーツから逃げ出し始め、周囲から聞こえてくるのは不景気な話ばかり…。年が明けてF1のテストが本格的に始まっても、やはり心は沈んだままで、これまで自分が立っていた地面がボロボロと崩れだしていくような、何とも言えない不安感にさいなまれ、新しいシーズンへの興味もボンヤリと像を結ばない。

 物心ついてから、この40数年間というもの、ともかく「好奇心」だけをエネルギーに生きてきたはずなのに、これではまるで「ガス欠状態」である。仕方なく、まずはこの10年のオトシマエをつけようと、フリーランスとして第3期ホンダF1を追いかけた記録として、初めての単行本「さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか」(3月26日発売、集英社刊)を2月に入ってからの2週間で一気に書き上げた。その過程でホンダ第3期F1の夜明け前から撤退までの10年間を振り返ったことは、F1の現場に通い続けた自分の10年を振り返る、いい機会にもなったと思う。

 こうして、いろんな意味で大きな存在だった「ホンダ」に自分なりのオトシマエをつけてから、僕は「ホンダのいないF1」を見にメルボルンに向かった。「さらば、ホンダF1」がフリーとしてF1を追いかけた自分の10年と、ひとりのホンダファンとしての「卒業文集」だとすれば、今回のオーストラリアGP取材はいわば「卒業旅行」のようなモノだった。「ホンダのいないF1」で自分が何を感じ、何を思うのか? 新レギュレーションの影響やKERSのコトよりも、それが僕にとっては最大の興味の的だった。

 思っていた通り、メルボルンのパドックに「ホンダの気配」は何も残っていなかった。ブラウンGPの快走は、嫌でもホンダのことを思い出させたが、誰もが自然にブラウンを「新チーム」として扱い、たった4カ月でホンダF1は「イギリスのプライベートチーム」に生まれ変わっていた。ホンダの不在がパドックに何一つ影を落としているように見えなかったことが、F1の将来を考えればうれしく、逆にひとりの「元ホンダファン」としては何とも悲しかった。

 昨年12月、ホンダがF1からの撤退を決めたとき、ホンダの方針はチームの売却による活動継続ではなく、キレイサッパリとチームを潰す「解散」を考えていたという。とはいえ、突然のチーム解散にはFIAをはじめ、各方面への違約金や解雇するスタッフへの補償のために巨額の予算が必要だ。そのため「それだけの予算があるなら、何とか1シーズンは戦える。その間にスポンサーを探すから解散を待って欲しい」というロス・ブラウンやニック・フライら現地幹部の希望で、シーズンオフの間、チームの存続に向けた様々な動きがスタートし、結果的にロス・ブラウンがチームを買い取る「マネージメント・バイアウト」の形に落ち着いたのだという。

 ちなみに、ホンダはロス・ブラウンに対するチーム売却をわざわざ「マネージメント・バイアウトではありません」と否定しているが、ブラウンGPの関係者を含め、イギリスの関係者は誰もが今回のチーム売却について当然のように「マネージメント・バイアウト」という言葉を使っているので、英語的にもやはりそう呼ぶのが適切なのだろう。いずれにせよ、開幕戦で見せたブラウンGPの快走を前に、僕は心から「このチームが解散に追い込まれずに良かった」と思った。ほんの4カ月前に、何の前触れもなく、突然、将来が何も見えない状況に追い込まれた旧ホンダF1のスタッフが、こうして開幕戦を迎え、それどころか、自信と喜びに満ちた表情を見せていることが、本当にうれしかった。

 もちろん、高い戦闘力でライバルたちを驚かせた彼らのマシン、BGP-001は本来、ホンダの2009年用(RAー109?)として設計された車体であり、ホンダがつぎ込んだ莫大な予算とブラウンの下でマシン開発に取り組んだホンダの車体エンジニアたちの知恵や努力が確実に生かされているはずだ。ホンダよりも確実にパワフルだと言われる、メルセデスV8を搭載していることも、ブラウンGPの速さの一因であるのは事実だが、フェラーリを含めたライバルたちが「別世界の速さ」と舌を巻く、このマシンのポテンシャルは、そのまま「ロス・ブラウンという正しいリーダーの指揮下でホンダの技術と資金力を生かせれば、トップレベルの戦いが可能だった…」という事実を示していると思う。

 それにしても残念でならないのは、このマシンの開発に携わったホンダの技術者たちが、ブラウンGP1、2位フィニッシュに沸くチームの輪の中にいられなかったことだ。迷走と失敗の繰り返しだった足掛け10年にも及ぶ、第3期ホンダF1がついに「正しい方向性」を見い出しつつあったことが、こうして、ホンダのいないパドックで証明されたというのは、皮肉と言うか何と言うか…。どうにもやり切れない気持ちにさせられる。

 だが、それはもう、仕方のないことなのだ。あんな形でF1を投げ出したホンダには、もう、喜びや悲しみをチームと分かち合う権利すらないのだから…。金銭難で捨てた子が後で出世したからといって「アレはホントは自分の子だ」などと名乗り出ることが許されないのと同じである。リスクを背負い、生き残ることに努力したものだけが、最後に勝利の栄誉と喜びを分かち合うことができる。自分たちの都合で無責任な撤退を選び、こんなチームを「消滅させようとした」ホンダは、もう2度とF1に帰ってくることはできないだろうと改めて思った。

 こうして、ジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロの表彰台を見ながら、僕の「卒業式」も終わった。するとなぜだろう? ホンダのいないF1パドックが、なんだか清清しく見えてきた。さて、僕もそろそろ前を向いて、次に踏み出す1歩を探さなきゃいけない。「さらばホンダF1!」。年末からずっと厚い雲に覆われ続けていた自分の気持ちが、少しだけ軽くなるのを感じた…。


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F1放浪記
川喜田研(かわきた・けん)
 1965年(昭和40年)4月20日、横浜生まれ。91年から「F1速報」、「レーシングオン」のスタッフライターとして働き、99年からフリーのF1ジャーナリストに。  現在は「スポルティーバ」(集英社)「カーグラフィック」(二玄社)などに執筆中。  愛称の「ちんぱん」は、成人男子とは思えないほどの落ち着きの無さ(本人は旺盛な好奇心ゆえと認識していますが…)や、締め切り直前のパニック状態(昔は編集部で跳ねたり、踊ったり、叫び声を上げたりという奇行を演じていたようです)がチンパンジーに似ていたことに由来する。

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