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おくやみ

島野育夫阪神特命コーチが死去

ob-071216-1.jpg03年11月3日、セ・リーグを制し星野監督(左)とともにパレードに参加する島野氏

 阪神、中日で星野仙一監督(60)の参謀役を務めた島野育夫(しまの・いくお)氏が07年12月15日午後9時5分、胃がんのため西宮市内の病院で死去した。63歳だった。栃木県出身。葬儀等は未定。コーチ、2軍監督などを歴任し、今季は1、2軍を巡回する総合特命コーチとして阪神に在籍していたが、体調の悪化から入退院を繰り返していた。今季限りでユニホームを脱ぎ、アドバイザーとしてフロント入りする予定だった。

 球界の名参謀が帰らぬ人となった。阪神、中日で星野仙一監督を支えるコーチ職を務めてリーグ制覇に貢献した島野氏が、胃がんのため死去した。06年には阪神2軍監督に就任したが、4月から長期入院を余儀なくされた。胃の摘出手術などを経て、今季は総合特命コーチに就任。病と闘いながら、1軍ベンチやクラブハウスを訪れてナインを激励することもあったが、再びユニホームを着ることはかなわなかった。

 作新学院、明電舎を経て63年に中日に入団。68年に南海に移籍すると73年には61盗塁をマークするなど俊足の外野手として強豪チームのレギュラーを張った。阪神に移籍後の80年に現役を引退。その後は阪神と中日で1軍ヘッドコーチや2軍監督などの要職を務めた。卓越した野球理論と人心掌握術でチーム強化に携わった。

 特に北京五輪出場を決めた日本代表の星野監督との絆(きずな)の深さで知られる。星野中日監督時代をコーチとして支えた。さらに01年オフに星野監督が中日を退団、阪神の指揮を執ると、中日2軍監督だった島野氏は阪神に移った。星野=島野体制の2年目、03年にコーチとしてセ・リーグ制覇に貢献した。体調の悪化から今季限りで阪神のユニホームを脱ぎ、来季からはアドバイザーとしての活躍が期待されていた。

悼む

 日本代表・星野仙一監督 今日、病院に行ってよかった。手を握って、このヤマを越えろよと、また野球ができるようになる、ここをしのげ、明日、また来ると言って別れた。

 日本代表の神戸合宿でもオレを見に来てくれた。北京に行きたかったと言っていた。元気になってきて欲しかった。(北京五輪の)第1関門を突破して、報告しに行ったんだけど。しかし島ちゃんらしいね。オレのスケジュールを知らないのに。(空いているのは)今日しかなかった。

 わがままを、よう聞いてくれた。何でも聞いてくれる仲だった。オレが寿命を縮めたのかな。全部、受け入れてくれて。

 悲しんだらおこられる。元気出さないかんと言われる。北京では島ちゃんから「オレがいなくてもできるやないか」と思われるようなところを見せたい。北京には島ちゃんといっしょに行くよ。

 阪神岡田監督 今は本当に、何を言うていいのか…。突然のことで分からない。入退院を3回繰り返していたから。やせたな、というのは気になっていたけど、それは本人には言えんかった。元気になってくれると思うしかなかったから…。最後に会ったのは、甲子園で話した時(9月27日、中日戦)だった。プロに入った時からお世話になってきた方。ご冥福をお祈りします。

 阪神赤星選手会長 言葉に言い表せません。今でも体が悪いのに球場に足を運んでいただいている、というのを肌で感じていました。まだいろいろ教えていただきたいことがたくさんあった中で先に逝かれたことは、残念だし、無念です。もう1度優勝というのを島野さんに見せてあげたかった。来年は島野さんのためにも優勝して、天国で見ていただきたいと思います。

 阪神南球団社長 突然の連絡で、本当にビックリしました。島野さんからは、経験に基づいた貴重なご意見をいただいてきました。僕個人も島野さんを頼りにしていたし、球団にとっても大きな損失です。心からのご冥福をお祈りします。

◆島野育夫(しまの・いくお)
 1944年(昭19)3月30日、栃木県宇都宮市出身。間々田中-作新学院-明電舎を経て63年に中日入団。3年目の65年に1軍定着。68年に南海に移籍した。73年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。76年に阪神移籍。80年に引退するまで現役18年間で1466試合に出場し、3029打数733安打で打率2割4分2厘、24本塁打、211打点、251盗塁。阪神守備走塁コーチ時代の82年大洋戦で判定をめぐり柴田猛コーチとともに審判に暴行、無期限出場停止となるが、翌年には解除。02年から星野阪神のヘッドコーチ、04年にフロント入りしたが、05年から総合コーチとして復帰。06年2軍監督、07年総合特命コーチに就任した。


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