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おくやみ

植木等さん(コメディアン・俳優)が呼吸不全のため死去

ob-070328-1.jpg最後の映画「舞妓Haaaan!!!」ではお座敷遊び常連の老人役で出演

 「クレージーキャッツ」のメンバーとして高度成長時代に爆発的な人気を博したコメディアンで俳優の植木等さんが07年3月27日午前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため亡くなった。80歳。「お呼びでない?」のギャグや大ヒット曲「スーダラ節」、映画「無責任男シリーズ」で60年代の日本に笑いを振りまいた。今年1月に入院し、3月中旬から病状が悪化していた。故人の遺言で通夜・告別式は密葬で営み、後日、お別れ会を開く予定。喪主は長男広司(ひろし)さん。

 植木さんは、妻の登美子さんと3人の娘さんにみとられながら、静かに息を引き取った。

 97年にNHK朝の連続テレビ小説「甘辛しゃん」に出演中のころから肺気腫を患い、治療をしながら収録に参加した。その後も病気と闘いながら仕事を続けたが、今年1月16日に食欲不振を訴え、都内の病院に検査入院。点滴・治療を行い、今月8日に自宅に一時帰宅した。しかし、翌9日に再入院し、中旬には容体が悪化し意識も混濁。その間、「クレージーキャッツ」の仲間だった谷啓(75)や桜井センリ(77)犬塚弘(78)が見舞いに訪れ、谷は17日、桜井は12日、犬塚は25日が最後の面会になった。亡くなった直後、40年前に付き人をした小松政夫(65)が駆けつけ号泣した。

 犬塚は「25日に見舞った時は呼吸が苦しそうだった。手を握ったら握り返してくれた気がした。2、3時間そばにいたけど、つらかった」としのんだ。

 植木さんは昨年12月の旧友の青島幸男さんの通夜に酸素吸入器をつけ、車イスに座って参列した。しかし、焼香の際には車イスから立ち上がり、毅然(きぜん)と焼香する姿に、関係者は「男の美学を感じた」という。植木さんは当時から死を覚悟していたのか、同11月には妻、マネジャーに「自分に何かあったら密葬にしてほしい」「延命措置などを行うのもやめてほしい」と遺言を残していた。

 実家は三重県の浄土真宗常念寺。住職の父が「平等」にちなみ「等」と名付けた。小学6年で僧りょ修行のため上京したが、音楽活動にのめり込み、57年「クレージーキャッツ」に参加。61年から日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」に出演し「お呼びでない?」のヒットギャグを生み、故青島幸男さん作詞の「スーダラ節」も大ヒット。62年からの映画「無責任男シリーズ」で明るく調子のいいサラリーマンを演じ、同世代から圧倒的支持を受けた。

 「無責任男」のイメージが強かった植木さんだが、根はまじめだった。犬塚は「きまじめないい人だったよ。きちんとしているからあれだけいい仕事ができた。クレージーは仲が良く、仕事が終わっても楽屋に残ってわいわいと話をして楽しかった。中心にいつもいて、華やかな人だった」。

 植木さんは、70年代後半から性格俳優として活躍し、85年には黒沢明監督「乱」に出演。脇役で渋い演技をみせた。最後の仕事は昨年11月。金沢で1シーンだけ出演した映画「舞妓Haaaan!!!」(6月公開)。一昨年11月の渡辺プロ設立50周年パーティーでは、谷が歌い、犬塚がベース、桜井がピアノを演奏し、植木さんが「こりゃまた失礼いたしました~」とセリフを入れて「クレージー-」を再現した。「『また4人でドラマをしたいね』と話していた。やりたかったなあ」。かなわぬ夢に終わった。

日本変えたスーダラ節のノリの良さ

 代表曲「スーダラ節」は植木さんと日本を変えた1曲だった。誕生したのは61年。東京五輪を3年後に控え、高度経済成長期のまっただ中だった。当初、植木さんは「ふざけた曲」として歌うのを嫌っていた。そうでなくても、バラエティー番組でみせるすててこ姿のため、娘が学校で笑われていた。住職の父に相談すると、「『分かっちゃいるけど-』は親鸞の教えに通じる」と言われ、迷いを吹っ切った。

 「芸能ビジネスを創った男・渡辺プロとその時代」(野地秩嘉著)によると、植木さんは「思えばあのころが世の中の変わり目だったね。スーダラ節は大ヒットしたが、その年の紅白歌合戦には出られなかった。品がないし、植木等は不謹慎だからだめというのが理由だったと思う」と振り返っている。それまでは歌詞をかみしめ、メロディーにじっくり耳を傾ける曲が主流だった。ところが、ノリの良さが第一の「スーダラ節」のヒットは、当時の日本社会の高揚感をあおり、クレージーも翌年紅白出場を果たした。

 ちなみに「スイスイスーダララッタ」は植木さんが気分よくしたときに口ずさんだフレーズがベースだった。日本を気持ちよくさせるフレーズにもなった。

植木さんスーダラ節で芸能界に革命

 27日、植木等さんの死は芸能界に大きな衝撃を与えた。しかし、都内の自宅前は衝撃の大きさに反比例するように、ひっそり静まり返った。所属事務所の渡辺プロダクションは通夜・葬儀は密葬で行いたいという故人の遺志を貫くよう、マスコミ各社の取材を断った。同プロとともに芸能界発展の最大の功労者に報いるための、異例の措置だった。

 植木等さんの死去は、一般のファンのみならず、芸能界にとっても大きな衝撃だった。縁の深いクレージーキャッツの盟友・谷や桜井センリ(77)所属事務所の渡辺美佐会長(78)らがショックのあまりにコメントを出せないほどだった。

 所属のワタナベエンターテインメントは、マスコミ各社にファクスで訃報と、植木さんの最後の様子を伝えたが、自宅取材などに対しては、取材規制を敷いた。「故人の遺志を最大限尊重致したい」と理由を説明した。数々の有名タレントが、同社を辞めていった中、最後まで筋を通して籍を置き続けた。関係者は「植木さんが居続けてくれたことは、我々の最大の支えであり励みでした」と明かす。取材規制は、義理堅かった植木さんに送る最後の恩返しだった。

 植木さんの芸能界への功績は、単なる「昭和の人気スター」というだけでは収まりきらない。故渡辺晋会長とともに、61年の「スーダラ節」発売で、芸能音楽に革命をもたらした。それまでレコード会社が所有していた原盤権を、芸能プロダクション側に帰属させた記念すべき1枚だった。これにより、歌手やフリーの作詞・作曲家が、作りたい音楽を自由に制作できるシステムが構築。さらに、芸能プロダクション業が、仲介業から知的財産業に発展した。音楽分野の幅が広がり、さまざまな才能、タレントを発掘できる素地が整ったのだ。

 SMAPが「現代のクレージーキャッツ」と称されることがある。アイドル歌手の枠にとどまらず、ドラマや映画、さらにはお笑いや司会業と、活躍の場を無限大に広げる姿は、50年から60年代の「クレージー-」に通じるものがある。今の日本芸能ビジネスをつくり上げた先駆者こそ植木さんたちだった。

映画とギャグで日本を明るく

 俳優として歌手としてクレージーキャッツの中で特別の存在感を誇った植木等さん。「小学校の時から見ていました」という映画評論家の寺脇研氏(54)に「俳優・植木の魅力とは何だったのか」を聞いた。

     ◆

 1960年代の終わりに渥美さんの「男はついらいよ」シリーズが始まりますが、それまで日本のコメディー映画は東宝の「無責任シリーズ」であり「日本一シリーズ」だったんです。

 もちろん、その中心に植木さんがいた。彼は国民的喜劇俳優だった。当時はお正月、お盆、それにゴールデンウイークと、順番にこのシリーズがかかっていたように記憶しています。年に3回も4回も、スクリーンで会えるいい男でした。

 ちょうど、高度経済成長期と重なり、日本の明るさや夢を、彼がスクリーンの中でも表現していったんじゃないですか。

 彼の最大の魅力は今でいう歌って踊れるミュージカル俳優ですが、それだけじゃない魅力があった。
 それは一言でいうと「スマートさ」かもしれません。スイ、スイ、スイと「スーダラ節」の歌通りに映画の中でも出世していくんですが、その調子の良さがなぜか嫌みに見えない。

 サラリーマン・木下藤吉郎みたいな役もやっていましたが、これも嫌みを感じさせない。彼の家がお寺さんであることや、戦争を体験されていることなど、まぁ、いろいろ背景はあると思いますが、そういったスマートさがなければ、あそこまでの映画シリーズを若くして背負うことはできなかったと思います。

 1つ残念なことは、晩年、テレビでは、個性的ともいえる名優ぶりを発揮されていましたが、映画では、強烈なシリーズものを過去に持ったぶん、その印象が強すぎたのでしょうね。特別印象に残る作品に恵まれなかったのではという気がします。心よりご冥福をお祈りします。

関係者悲しみの声

 みのもんた(61) 92年の「ゆうもあ大賞」を一緒に受賞したことを思い出します。植木さんは、僕の年齢を聞いた後に「オレは受賞に70年かかったよ」って笑ってたなあ。最近は、僕が司会してる「新春かくし芸大会」の審査委員長を務めてくださいました。皆がまじめに採点している中で「両方、満点だよな」って言うような、仏様みたいな方でした。文化放送時代にも歌謡曲の番組で何度もご一緒しましたが、いつも台本を台無しにしちゃう面白い方でした。時代の流れを感じます。

 植木さんの最後の出演映画「舞妓Haaaan!!!」の水田伸生監督 昨年11月の金沢ロケにさっそうと現れたお姿を忘れることはできません。宮藤官九郎さんの脚本を植木流に膨らましたアドリブ…。現場は大爆笑でした。尊敬する先輩を失ったというよりも、昭和という時代を失った気がしてなりません。心からご冥福をお祈りいたします。

 司葉子(72) 日本映画がとても盛んな時期にご一緒しましたが、ハードスケジュールを文句も言わずにこなし、プロ中のプロと感じていました。私も女優として、男優の植木さんに負けずに頑張るよう心掛けました。俳優として、華やかな一面を持つ一方、お寺の出身だからか理性派の面もお持ちだったのが印象に残っています。

 俳優森繁久弥(93) また大切な仲間が黄泉(よみ)に旅立ってしまった。植木ちゃん。会えば僕の体のことを心配してくれていた。なぜ、先に逝くか…。思い出に残るいい芝居をしたね。今は世の無常を恨むしかない。

 植木さんと40年近い付き合いの女優浅香光代(79) 昨年のいつだったか忘れたけど、夢に植木さんが出てきたことがあって。心配になって翌朝、すぐに自宅に電話したら、調子が悪いんだって。入退院を繰り返しているそうで、本当に元気がなかった。そのあと、青ちゃん(青島幸男氏)の葬儀であったときは、本当に具合が悪そうで。ずっと心配していたんです。東宝の舞台「にぎにぎ」(73年)で初めて出会いました。「スーダラ節」などのイメージとは違って、お寺の息子さんらしく、本当に堅くて、まじめな人。私が世志凡太と結婚するときは「無理するな。1人でいた方がいいのに」って心配してくれてね。小唄を覚えたいといって、私が三味線をひいて植木さんが歌っていたことを昨日のことのように思い出します。

 クレージーキャッツ時代に付き人だった島崎俊郎(52) 非常に残念です。植木さんには(作家島崎藤村から付いたあだ名の)「とうそん!」と呼ばれ、かわいがっていただいたことを思い出します。植木さんは私に、この世界で生きていく知恵を与えてくださいました。本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。

◆植木等(うえき・ひとし) 本名同じ
 1927年(昭和2年)2月25日、愛知県生まれ。東洋大文学部卒業後、バンド活動を始め、57年にハナ肇がリーダーの「クレージーキャッツ」に参加。「スーダラ節」がヒットし、62年からの映画「無責任シリーズ」の大ヒットで「無責任男」が異名に。後に性格俳優として多くの映画、ドラマに出演。86年「新・喜びも悲しみも幾歳月」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、95年「あした」で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞。93年紫綬褒章、99年に勲4等旭日小綬章を受章した。

◆植木さんと歌

 44年、東洋大在学中に軽音楽同好会を作り音楽活動をスタート。このころ、別のバンドにいたハナ肇と出会い、47年にはNHKラジオ「お昼の軽音楽」でデビューした。青島幸男さん作詞の「スーダラ節」は50万枚を超える大ヒット。底抜けに明るいメロディーが多く、「スーダラ節」「無責任一代男」など、多くの楽曲が高度経済成長を生きるサラリーマンの心をとらえた。初の全国ツアーは92年。平成の時代に入ってからだった。

◆植木さんと映画

 植木さんはテレビ出演よりも先に、58年「裸の大将」で映画デビュー。62年主演したコメディー映画「ニッポン無責任時代」が大ヒット。演じたエネルギッシュな無責任男はそのまま異名になった。以降、「無責任男シリーズ」として次々と製作された映画は、71年「日本一のショック男」まで30本に上る。73年「ここからはじまる物語」からは比較的地味な役柄を演じることが多く、渋さを発揮した。最後の出演となった映画「舞妓Haaaan!!!」(6月公開)では、お座敷遊びの常連の老人役でゲスト出演した。

◆肺気腫(はいきしゅ)

 発症原因について判明していないが、患者の8割が喫煙者であるというデータや非喫煙者でも受動喫煙による発症例が指摘されている(植木さんは非喫煙者)。井上外科胃腸科病院の井上毅一院長は「肺の中では気管支が細かく枝分かれして、その末端にブドウの房のような形をした肺胞というものがある。肺胞は酸素の交換を行っているが、肺気腫になると激しいせきを繰り返すため、酸素を体内に吸入することが困難になり、肺胞が破壊される」と説明する。肺胞は壊れると治らない。



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