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おくやみ
ラグビー元代表監督の宿沢広朗さん急死
ラグビー元日本代表監督の宿沢広朗(しゅくざわ・ひろあき)さんが06年6月17日午後0時53分、心筋梗塞(こうそく)のために群馬・前橋市の群馬大医学部付属病院で急死した。55歳だった。同日昼前、群馬・赤城山を登山している途中に倒れ、そのまま搬送先の同病院で死去した。同氏は埼玉・熊谷高-早大でSHとして活躍し、日本代表キャップ3。代表監督時には91年の第2回W杯でジンバブエを撃破し、日本をW杯初勝利に導いた。00年から3年間、日本ラグビー協会強化委員長も務めるなど、競技向上に力を注いでいた。
胸の痛みを訴え
突然すぎる死だった。宿沢氏は17日午前11時30分ごろ、登山先だった群馬県内の赤城山・鈴ケ岳山頂付近から下山途中に倒れた。関係者によれば胸の痛みを訴えた後、意識不明の重体となったという。すぐに防災ヘリコプターで前橋市の群馬大医学部付属病院に搬送されたが、まもなく心筋梗塞(こうそく)のために帰らぬ人となった。73年に入行していた三井住友銀行では、取締役専務執行役員として今年4月、大阪から東京勤務に戻ったばかりだった。
日本ラグビー界の大きな支柱を失った。同氏は89年から91年まで、日本代表監督を務めた。初戦でスコットランド代表と対戦した際、同国代表が練習していた秩父宮ラグビー場に隣接する商社ビルから戦術練習を偵察し、28-24で撃破した理論派。91年の第2回W杯ではジンバブエを52-8で破って日本にW杯初勝利をもたらした。これが現在も日本のW杯史上、唯一の勝利として輝いている。
日本ラグビー協会では理事の役職に加え、00年から3年間、強化委員長も担当。その後も新たに設置された世界8強進出対策会議のメンバーに選出されるなど、常に代表強化改革プロジェクトチームのリーダーとして活躍していた。ラグビーに携わる一方で銀行マンとしてもロンドンなど海外勤務後、主に市場部門を歩み、同部門の収益を大きく拡大させた。銀行合併時にも大きな役割を果たした。その手腕を買われ、経営幹部として将来を嘱望されていた存在だった。
本紙ではラグビー評論家としても活躍した。大学、社会人、日本代表を問わず、常に辛口な論評を続けて日本ラグビー界の発展を訴え続けた。享年55歳。他界するには若すぎる年齢で、この世を去った。
肩を落とす平尾氏
宿沢氏が率いた91年W杯で主将を務めた平尾誠二氏(現日本協会理事)は、落胆の色を隠せなかった。突然の訃報(ふほう)に「急な知らせで本当に驚いています」と言葉を絞り出すように言った。W杯初勝利を挙げた当時を思い出すように「(大阪から転勤で)東京に戻ってこられたと聞いて、これからも日本ラグビー界のためにご活躍することを期待していた矢先の出来事でした。非常に優秀な人材を亡くしてしまった」と肩を落とした。
関係者悲しみの声
前日本代表監督の萩本光威氏 日本ラグビー界の発展のために全力を尽くしてこられた大先輩で、尊敬をしていた人でした。突然のことで大変驚いています。ご冥福をお祈りします。
サントリー清宮克幸監督(38=前早大監督) 驚きました。いろんな相談ができる頼れる先輩でした。まだまだこれから、力を発揮されて活躍できる場所がたくさんあったのに…。本当に残念です。誰もが思うワセダOBの誇りでした。
早大・中竹竜二監督 突然のことだし、まだ55歳と若いのに信じられません。早大だけでなく、日本ラグビー界にとっても財産といえる人だっただけに、残念でなりません。
悼む…プロ化の中心的存在
02年1月8日、場所は東京・銀座のヤマハホールだった。当時、日本協会の強化委員長だった宿沢氏はトップリーグ創設を、初めて公にした。日本最高峰リーグの創設は日本代表の強化と表裏一体、07年W杯を見据えてのものだった。前年の01年に協会は世界の主流だったラグビーのプロ化に踏み切った。その中心にいたのが宿沢氏だった。
日本ラグビー改革の第1歩であるトップリーグは03年に誕生した。神戸製鋼-サントリーの開幕戦を観戦した宿沢氏は「ボールが動き、スピーディーなゲーム。お客さんもラグビーの醍醐味(だいごみ)を味わってもらえたのでは」と満足そうに語っていた。日本代表のプロ化に伴い、そのプレーに応じての報酬制度を考案するなど、前向きな姿勢で立ち向かった。
この日、午後9時すぎ、前早大監督の清宮克幸氏から訃報(ふほう)を伝えられた日比野弘氏(日本協会前副会長)はこう語った。「大変な人材をなくした。早大の現役時代は知的なプレーでシャープな判断力が光っていた。文武両道。残念でしようがない」。日本代表が6大会連続出場を目指す07年W杯はフランスで開催される。宿沢氏は悲願である1次リーグ突破を前に他界した。【ラグビー担当=三角和男】
- ◆宿沢広朗(しゅくざわ・ひろあき)
- 1950年(昭25)9月1日、東京・日野市生まれ。熊谷高でラグビーを始め、早大に入学。SHとして大学2年で日本代表に選出される。キャップ数は3。大学時代は71、72年の連続日本一に貢献。73年に住友銀行に入行。7年半ロンドン支店に駐在。現在は三井住友銀行取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長。89~91年に日本代表監督を務め、91年の第2回W杯のジンバブエ戦で日本代表W杯唯一の勝利をあげた。94年には早大の監督も務めた。