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   <title>コラム_芸能：裕次郎とともに</title>
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   <title>（24）石原軍団、今でも映画製作の夢</title>
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   <published>2009-07-04T03:59:09Z</published>
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      　「裕次郎さんなら一体どうするだろうか」。渡哲也（６７）の頭の中にとっさに浮かんだのは、慕い尊敬し続けた石原裕次郎の顔だった。

　２００３年（平１５）８月１２日。石原プロが会社の威信をかけて制作に取り組んでいた連続ドラマ「西部警察２００３」の撮影現場で事故が起きた。場所は名古屋。見物客５人が重軽傷を負った。都内で一報を受けた渡は決断に迫られていた。

　けが人の状況を聞き、制作中止を即断した。名古屋にいる制作関係者の間には「もう少し様子を見てからでも」という意見もあったが渡は譲らなかった。「こちらで見学を許可しておいて事故に巻き込んだ。撮影の続行など考えられなかったですね」という。
　裕次郎さんの顔が浮かんだのは、もう１つの決断に迫られていたからだ。「ファンに対してこれほどの事故を起こしておいて、果たして『石原プロ』を存続させていいものなのか」。渡は悩み抜いた。「裕次郎さんだったら、解散させるかも知れない」。

　渡は裕次郎死去を受けて石原プロを引き継いだ。当初、同プロ小林正彦専務から社長就任を打診されたが「私はその器ではない。その度量もなければ、経営にも興味はない」と断った。それでも小林専務の再三にわたる説得と情熱にほだされて決意した。以来、生前とは別の形で裕次郎と向き合う日々が始まった。

　「常に意識してきたのは石原裕次郎の名を絶対に汚さないこと。これだけは肝に銘じてきました。そしてもう１つ。大きな決断に迫られた時、裕次郎さんならどう判断するかを考えてみるということです」。

　映画製作に対しても裕次郎さんの存在は今も切り離せない。没後もその遺志を引き継ぎ、常に映画製作を念頭に活動を続けてきた。

「構想はもちろん、脚本もいくつも完成させてきました。大がかりな撮影が必要なものについては、必要なものを専門メーカーに発注したこともあります」。

　完成した脚本は社員全員で検討した。それでも石原プロは今も映画製作に乗り出していない。渡は「何もしていないわけじゃない。着手もした。それでもこれだと手応えを感じて前に進むことができるものに巡り合うことがなかった。我々にとって（裕次郎という）冠は、やはり大き過ぎるのかも知れません」。

　模索は今も続いている。映画界の現状と自分たちの置かれた立場もしっかりと見据えながら、映画製作を夢見ている。「裕次郎さんならこんな時、どうするのだろう」。渡は今も裕次郎とともに生きている。（おわり＝敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎と渡　渡は日活入社直後、撮影所の食堂でトップスター裕次郎にあいさつに出向くと、裕次郎は立ち上がって握手を求め「石原裕次郎です。きみが渡哲也くんですか。頑張ってください」と応じ、これに渡が感激した。渡は裕次郎を慕い、裕次郎も「テツ」と呼んで面倒をみた。石原プロが映画興行の不振が重なり倒産危機と知ると、当時日活所属だった渡は貯金全額１８０万円を「お茶代にでも使ってください」と差し出して裕次郎を感激させた。後に渡は石原プロ入りするが、同社は立て直しのためテレビ界に進出。渡は映画への夢を抑え、裕次郎のためにドラマ出演を続けた。２人の誕生日はともに１２月２８日。
      ８２年「西部警察」ニューマシン発表会で写真に納まる石原裕次郎（左）と渡哲也
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   <title>（23）渡「映画に人生を懸けていた」</title>
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   <published>2009-07-03T05:32:26Z</published>
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      　話題は決まって「映画」になった。東京・成城の石原裕次郎邸。「なあ、テツ」。裕次郎はそう切り出すと、自分をじっと見つめる渡哲也（６７）に向かって熱っぽく語りかけた。

　「舞台はアフリカだ。ファーストカットはもう決まっているんだ。遠くにサバンナが見える。カメラは望遠だな。はるか遠くに人影が見えてくる。そいつはこっちに向かって歩いている。望遠レンズに映るその男はどんどんこっちに寄ってくる。それはおれだ。そこから…」。身ぶり手ぶりで頭の中に浮かんだ映像のイメージを再現。「ズンズンズンズン…」という緊迫感ある音楽も合間に交える。「そこからどうなるんですか？」「なるほど」などと時折投げ掛けられた渡の言葉に答えながら“新作映画”の構想は延々と続いた。

　渡は不思議に思った。石原プロを立ち上げた裕次郎は「黒部の太陽」「栄光への５０００キロ」と主演・製作した作品を大ヒットに導いた。しかしその後製作した「ある兵士の賭け」（７０年）はハリウッドの監督や脚本家を使うぜいたくさが製作費を膨らませ、興行的な失敗を経験する。当時の金額で約５億８０００万円の負債を負った。裕次郎は直後に肺結核に倒れ、石原家の預金通帳の残高はわずか５万円になった。妻まき子は婚約指輪と結婚指輪を残し、すべての宝飾品を売り払った。“新作”の話は裕次郎が絶望の連続を味わった直後に聞いた。「並の人間なら、とてもじゃないが映画作りの話なんてできないはず。ところがそんなことをみじんも感じさせず、一切構わず夢を語る。この人はどこまでもロマンを失わず、本当に映画を愛し、映画に人生を懸けていると心底感じました」。

　その後、何度も裕次郎邸を訪れたが、２人きりになると、必ずその“新作”の話になった。何度も聞いていたが、渡はいつも初めて聞くような顔をした。「５～６回は聞きましたね。知っていても、裕次郎さんの目を見ると止めることなどできなかったですね」。

　石原プロはその後、以前ほどのスケールではないがいくつかの作品を世に送り出した。それでも裕次郎は野心的でスケールの大きい感動作を追い求めた。

　亡くなる２年前の１９８５年（昭６０）３月。療養生活を送るハワイに脚本家の倉本聡を招き、新作の構想を練った。ハワイを舞台にした父娘の物語だった。ハワイの地図にあちこち印を書き、カメラ位置にまで話は弾んだという。

　渡は仕事のため日本にいた。話をスタッフから聞くと、いつも裕次郎邸で聞いた、あの映画について話す裕次郎の弾んだ声と、遠くを見つめるような目を思い出した。裕次郎には知らせていなかったが、その１０カ月前、肝細胞がんの診断を受けていた。「やっぱり社長には告げられない」。渡は目頭を熱くしながら、あらためて決意した。（つづく＝敬称略）【特別取材班】

　◆渡哲也（わたり・てつや）本名・渡瀬道彦。１９４１年（昭１６）１２月２８日、兵庫県生まれ。６４年日活入社、６５年「あばれ騎士道」で俳優デビュー。６６年「愛と死の記録」や石原裕次郎主演作のリメーク「嵐を呼ぶ男」などに主演しブルーリボン賞新人賞。６８年開始の「無頼」シリーズがヒット。７１年に日活を退社し、石原プロ入り。７６年「やくざの墓場・くちなしの花」でブルーリボン賞主演男優賞。「大都会」「西部警察」などドラマでも人気を獲得。裕次郎死去に伴い８７年に石原プロ社長に。

　◆裕次郎の右耳　亡くなる６年前から、裕次郎の右耳は聞こえなかった。８１年に解離性大動脈瘤（りゅう）で手術した後遺症と思われる。手術から約２週間後にまき子夫人に変調を訴えたが、周囲に聞こえないそぶりは一切見せなかった。同年１１月には「太陽にほえろ！」に復帰し、翌年以降もアニメ映画「わが青春のアルカディア」の声優、「西部警察」への出演、歌も精力的に歌った。
      ６５年、映画「赤い谷間の決闘」で共演する石原裕次郎（左）と渡哲也
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   <title>（22）舘「俺は渡さんの舎弟」に「そうか」</title>
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      　「社長にとって僕はかわいいやつではなかったと思います」。石原裕次郎が亡くなる前年の８６年１月、ハワイの別荘。夕食後、裕次郎と舘ひろし（５９）は２人でカウンターに並んで座っていた。海がよく見えるので裕次郎は好んでそこに座った。静かに聞こえる波音をかき消すような、舘の意外な言葉に裕次郎は思わず聞き返した。「ひろし、どうしたんだ？」。舘は気持ちを落ち着かせようとリキュールを１口飲んでから、カウンターの上にあったボトル２本を手に取り、縦に並べた。「手前が渡（哲也）さん、奥が社長です」。裕次郎は少しほほ笑みながら黙って聞いていた。舘は少し身をかがませ、目線をテーブルの少し上まで落とすと「手前のボトルを真後ろから見ると、奥のボトルは見えません。でも自分が少し斜めの位置に立つと奥のボトルは見える。でもそれは嫌なんです。僕は渡さんの背中をいつも真っすぐ見つめていたいんです」。

　舘はその５年前、石原プロに入った。もともと東映でキャリアをスタートさせたが、ドラマ「西部警察」の共演で渡の人柄とおとこ気に心酔して入社を決意した。生意気盛りの自分を、１人の俳優として心から認めてくれた初めての人だと感じたからだ。裕次郎の大きさも感じ尊敬もしていたが「おれは渡さんの舎弟になると決めたから」と振る舞いも自然にそうなった。序列で言えば「まず社長、次が渡」が当然だったが、目線はいつも渡を追っていた。

　別荘の夜の３週間前。ともに年末年始を過ごした渡から「ここに残って社長の運転手をやってくれ」と言われた。毎日昼前に別荘に迎えに行き、ゴルフ場やヨットハーバー、買い物などに同行した。その夜は仕事の都合で帰国する前日だった。昼は「僕におごらせてください」と裕次郎夫妻をホテルのレストランに誘った。「そうか、ひろしがおれにメシをおごってくれるのか」と笑う裕次郎に、妻まき子も「それでは今日だけは」と禁酒中の夫にシャンパンを飲むことを許した。乾杯すると裕次郎はグラスを一気に飲み干して舘に向かっていたずらっ子のようにまた笑った。

　舘は今思う。「渡の指示で石原さんと濃密な時間を過ごすことができた。だから最後の日、心の中にしまっておいたことを言おうと思ったのかな」。

　２本のボトルを見つめながら舘は話を続けた。「渡さんも社長の背中を真っすぐ見つめている。僕も渡さんに対してそうありたい。そうすると、どうしても手前の１人の背中しか見えなくなってしまうんです」。裕次郎は並んだボトルを見つめながらずっと黙って聞いていた。思いのたけを明かした舘は必死だったこともあって裕次郎の表情や反応を見る余裕はなかった。

　数秒間、波音だけが聞こえた。裕次郎は「うん」とうなずいてから「そうか」とだけ言ってまた海を見つめていた。横顔が少しほほ笑んで見えた。熱い思いを包むように波音が静かに聞こえてきた。舘はそれだけで良かったと思っている。「社長はそこで大げさに肩なんかたたいたり抱いたりして『分かったぞ、ひろし』なんて言う人じゃない。自分は気持ちを伝えられて良かった。ただそれだけのことです」。２本のボトルは今も別荘に飾られている。（敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎と副業　５９年１２月、友人と共同経営で東京・四谷にステーキハウス「フランクス」をオープンした。最盛期は映画や芸能関係者でにぎわった。現在は閉店。「フランクス（ＦＲＡＮＫ’Ｓ）」は、米ボストンで３８年創業のステーキハウス。ステーキは裕次郎の好物の１つで、横浜の炭火焼ステーキ専門店に通っていた。兄慎太郎の自宅に訪問すると、決まってステーキを焼いてもらった。

　◆舘（たち）ひろし　本名・舘廣。１９５０年（昭２５）３月３１日、名古屋市生まれ。千種高ではラグビー部。７５年に岩城滉一らとロックバンド、クールスを結成しボーカルを担当。東映「暴力教室」（７６年）で映画デビュー。７９年テレビ朝日系「西部警察」でドラマ初出演。ソロ歌手として、８４年に「泣かないで」がヒットしＮＨＫ紅白歌合戦に出場。ドラマ「あぶない刑事」は映画化もされ代表作。９６年に結婚。身長１８１センチ、血液型Ａ。
      ７９年７月、「西部警察」の制作発表会見に臨む、左から舘ひろし、石原裕次郎、渡哲也
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   <title>（21）「なあ、正輝」笑顔で無茶な指令</title>
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   <published>2009-07-01T01:14:54Z</published>
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      　「とにかく早く来てくれ」。神田正輝（５８）はその日朝、ホノルル市内のホテルに到着したと、別荘にいる石原裕次郎に連絡すると、そのあわてた話しぶりに驚いた。とにかく急いでレンタカーに乗り込み、別荘に向かった。郊外にある建物に近づくと、門の外に見覚えのある人影が見えた。裕次郎だった。Ｔシャツに短パン、手にはビーチサンダル。両手を大きく広げて「中には入るなよ ！ 」と叫び駆け寄ってきた。車に乗り込むと「早く出してくれ」。言われるままアクセルを踏むが、行き先が分からない。「どうしたんですか？」と聞くと「逃げるんだよ」と裕次郎。「とりあえず島を１周しよう」と指示された。

　当時、裕次郎は解離性大動脈瘤（りゅう）手術後で年末年始恒例の石原プロハワイ旅行も、裕次郎の静養という意味合いが強まっていた時期だった。ハンドルを握る神田に「酒屋に入って、うまいシャンパンを探そう」と笑った。裕次郎は毎日３０錠にも及ぶ大量の薬を規則正しく服用し、食事制限も実行中だった。アルコールは当然厳禁だった。島中くまなく探し回ったが、求めるものは見つからなかった。

　気がつけば日は傾きかけていた。午後５時すぎにホノルル市内に着いた。ハイアットリージェンシーホテルを指さし「一杯飲んでいくぞ」。テラス席に座ると、塩がグラスの縁に付いた「ソルティドッグ」を注文した。塩分は特に厳しく制限されていたので神田はあわてて「社長、それはまずいです」と言ったが「いいんだよ」と静かに笑っていた。グラスをテーブルに置いたまま、オレンジ色に染まっていく海を黙って見つめた。１時間ほど過ぎた。「怒られますから、そろそろ帰りましょう」。「分かってるよ。パスポートもないんだから、日本まで逃げられるわけもないしな」。神田には分かった。少しだけ気分をリセットしたかっただけなのだ。悲壮感はない。ただ少しだけ課せられた日常から逃げたかっただけなんだと。

　午後７時前、別荘に戻った。常に裕次郎のそばにいたスタッフの１人、金宇満司（７６）は「何やっていたんだ、ばかやろう」と怒鳴ったが、神田と２人だけになると「ありがとうな」と言った。「体調を思えば仕方ないことでしたが、息詰まっていく裕次郎さんを見るのはきっとみんなもつらかったんです」。

　新人時代、夕方になると撮影現場に裕次郎から連絡が入る。運転手として銀座や赤坂を移動するためだ。店に入ると自分を隣に座らせた。「車や外、店の隅などで（運転手を）待たせるのが嫌いな人でした。本当にやさしかった」。最後はいつも行きつけの渋谷の店。「僕は今日も撮影があるので帰りましょう」と言うと「おお、そうか」と店を出る。東京・成城の自宅まで送ると、撮影スタジオ駐車場に窓を開けたまま車を止める。仮眠しているとスタッフが起こしに来る。これが日常だった。「むちゃなことを言われても自然に心が動く。頭のてっぺんから足のつま先まで、言うことやることすべてがチャーミング。それでいて少しきかん坊。そばにいるだけで本当に楽しかった」。「なあ、正輝」と切り出し、むちゃな“指令”を出す時のちゃめっ気たっぷりの笑顔が今も忘れられない。（この項終わり＝敬称略）【特別取材班】
      ハワイのゴルフ場で神田正輝（左）と石原石原裕次郎さん
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   <title>（20）顔見るたび「正輝、遊んでいるか？」</title>
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   <published>2009-06-30T02:13:00Z</published>
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      　風のような人だった。１９７５年８月。神田正輝（５８）は大学卒業後、スキーのコーチをしていた。当時２４歳。知人と東京・赤坂東急ホテルの喫茶店で雑談をしていた。離れたテーブルに石原裕次郎を見つけた。偶然にも知人は裕次郎と知り合いだった。あいさつに出向く知人の後ろにいると裕次郎は気軽に声を掛けてきた。いつの間にか１つのテーブルを囲んでいた。話題がスキーになると裕次郎に聞かれた。「ところでスキーは何歳までやるつもり？」。「３５歳になったら山小屋のオヤジになるつもりです」と答えた。裕次郎は「１０年後か」とつぶやいた。遊びの話ばかりしていた裕次郎が「テレビに出てみないか」と切り出した。「テレビは好きじゃないですね」。裕次郎は笑いながら「そうか」と言って立ち上がり、「それじゃ」と手を上げ、さっそうと去って行った。

　裕次郎はその日、翌年放送開始のドラマ「大都会」の新人選考のためホテルにいた。審査に行き詰まったからなのか、会場を抜け出しコーヒーを飲んでいた。

　１週間後、自宅の電話が鳴った。「うちの会社に遊びに来い。映画で使った車も見せてやる。メシも食わせてやるぞ」。連絡先は知人から聞いたらしい。大スターなのに不思議なほど威圧感がない。石原プロモーションを訪れるとまた遊びの話ばかり。スキー、ゴルフ、車…。一体おれに何の用件があるのだろう。「今度は撮影所に来いよ」。夏スキーシーズンも終わり、時間はあった。日活撮影所に足を運ぶと裕次郎自ら案内してくれた。しばらくすると建物の隅を指さし「カメラで撮ってやるから、そこに隠れてこっちをのぞいてみろよ」。カメラテストだったことは後に気付く。

　「冷やかしでいい。１本だけでいいから」と説得され、１カ月後に始まった「大都会」の撮影に参加した。１話目を撮り終えると「そろそろ山に行かないといけないので」と告げた。裕次郎は「そうか」と言った。山にこもっているとロッジの電話が鳴った。石原プロのスタッフだった。「１本だけというのは、最終回までという意味だ」と説明された。仕方なく山を下り、撮影所に戻ると裕次郎は笑って出迎えた。

　スキーで生計を立てようとしていたので困ったが「ある程度やったら辞めればいい」と撮影所に通った。最終話が近づくと別のドラマの台本を渡された。裕次郎は自分の顔を見るたび「正輝、遊んでいるか？」と笑うばかりで、自分の演技のことにはまったく触れない。スタッフから「何であんな素人を使うのか」と聞かれた裕次郎が「あいつは必ずものになる」と言ったのは後で知る。

　裕次郎に背中を押されるまま１０年が過ぎた。ある日東京・成城の自宅に呼ばれた。「よく１０年も持ったな」と、神田の名前が入った高価なブレスレットを手渡された。自分の導きで１人の若者の運命を変えたことに対する言葉などなかったが「おまえは外国ばかりに遊びに行くから、金が無くなったらこれでも売れば飛行機代ぐらいにはなるぞ」と笑っていた。ぶっきらぼうな言葉に隠された、やさしさがうれしかった。

　「なぜ自分を俳優の道に進ませたのか、理由は聞きませんでした。たとえ聞いても、きっと裕次郎さんは笑うだけでしょう。『そんなことより、遊んでいるか？』って」。（敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎とスキー　父の転任で３歳から９歳まで北海道・小樽で過ごし、父からスキーを教わった。冬は同地の天狗山で兄慎太郎とスキーを楽しんだ。自宅から稲穂国民学校（現在の稲穂小学校）まで、スキーで通った。61年には長野・志賀高原のスキー場で、女性スキーヤーと衝突。右足首を粉砕複雑骨折した。映画「黒部の太陽」（68年）撮影の休憩時間には、富山県黒部でスキーをした。
      ドラマ「太陽にほえろ」収録に現場復帰した石原裕次郎（手前）。後列左から下川辰平、露口茂、友直子、神田正輝
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   <title>（19）友和に「裕ちゃんでいいよ」</title>
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   <published>2009-06-27T00:38:08Z</published>
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      　「迷惑が掛からなければいいけど」。三浦友和（５７）は夫人の百恵（５０）を連れて石原裕次郎の別荘に向かっていた。１９８３年（昭５８）１月、ホノルル。年末からＣＭ撮影でマウイ島に滞在していた。結婚４年目の夫人を同行させたことでマスコミから追いかけられ、行く先々で人だかりもできた。同時期ホノルルにいる予定の裕次郎から「遊びに来いよ」と誘われた。空港でも報道陣にキャッチされ、友和が対応した。あわただしさを感じながら、２人は裕次郎のコンドミニアムに到着した。

　部屋は高層タワーの上層階。ドアを開けると眺望に圧倒された。夕日を浴びながらソファに座る裕次郎。「ガラス窓が映画のスクリーンのように大きくて、そこから夕日が差し込む。裕次郎さんが輝いてみえました。どこまでもスターだなって」。友和も当時出演していたドラマ「西部警察」に出演中の石原プロの俳優がそろっていた。渡哲也（６７）をはじめ妻が同伴している俳優もいた。百恵は裕次郎と初対面。察した裕次郎夫人のまき子が声を掛けた。「さあ、こっちに座って」。百恵に笑みがこぼれた。渡の妻も百恵に話しかける。「石原軍団の中に僕ら夫婦が突然入ってきたようなもの。妻はみなさんと面識がなかったので緊張していましたが、随分気を使っていただきました。おかげで随分リラックスできました」。

　ワイワイとなごやかにお酒を楽しみ、記念撮影も撮り合い、３時間ほどで散会した。三浦夫妻は「何もなくて良かった」と安心しながら帰路についた。

　友和は前年８２年スタートの「西部警察ＰＡＲＴ２」で裕次郎と初対面した。全国縦断ロケでは、病み上がりの裕次郎も週に数日参加した。石原プロの俳優やスタッフは裕次郎を「社長」と呼ぶ。友和は「僕にとって雲の上の人。石原さんと呼ぶのも違和感があった」。周りにならい「社長」と呼ぶと、裕次郎は「友和、社員じゃないんだからそりゃ変だろ」。そこで「どうお呼びすればいいのですか」とたずねると「裕ちゃんでいいよ」。「それは無理ですよ」と困り顔の友和を見て、裕次郎はニコッと笑った。「結局社長と呼びました」。

　全国各地の大規模ロケでは撮影隊はどこでも歓待された。「通常のドラマの３倍以上のスタッフが大がかりなことをやる。普通は嫌がられるが裕次郎さんの冠があるとどこでも受け入れてくれる。やっぱりすごいなと思いました」。

　裕次郎死去から１６年。その生涯を描くドラマ「弟」の裕次郎役の出演依頼が届く。「あのカリスマ性や大スターであることは演技で表現できるものではありません」と断ったが、尊敬する渡に説得され、出演を決意。悩みながら演じたが、作品を見たまき子から喜びの言葉とシャンパンが届いた。演じて感じたことがあった。「裕次郎さんは世の中を明るくするため、お前が必要なんだと役割を与えられて生まれてきた人のような気がしてなりません」。（敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎と六本木　戦後の東京を代表する繁華街は銀座だったが、５７年ごろに六本木のクラブやバーが日本人を相手にするようになり、裕次郎も同地へ通い始めた。流行に敏感で、六本木族の草分けだった。俳優赤木圭一郎や、「ザ・スパイダース」のメンバーかまやつひろし、落語家林家三平（初代）らが遊び相手だった。焼き肉店などで、裕次郎が豪快に飲食する姿が見られたという。
      左から三浦友和、１人おいて舘ひろし、山口百恵さん、神田正輝
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   <title>（18）藤・妻孝行の陰に天国の目</title>
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   <published>2009-06-26T02:44:27Z</published>
   <updated>2009-06-26T00:24:07Z</updated>
   
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      　石原裕次郎に日活の重役を説得してもらい、芦川いづみ（７３）との結婚を導いてもらうほどの間柄だった藤竜也（６７）は、日大在学中に日活の関係者にスカウトされ、６２年に俳優デビューした。７歳年上の裕次郎は「嵐を呼ぶ男」（５７年）などの主演映画がヒットし、日活の看板スターとして君臨していた。

　「石原さんの映画はよく見てました。立っているだけで、存在感があった。その時代の青年の香りがしました。僕が俳優になった後、どこかで石原さんのマネをしちゃう。一番光り輝いているから。それは完全な間違いでした」。

　裕次郎にあこがれていた新人俳優に、出会いのチャンスが訪れた。アクションの練習で所属した技闘部の忘年会に出席。後輩の面倒見が良かった裕次郎も参加し、盛り上がった。

　「他の仲間と一緒に呼んでもらって、末席に座っていた。その時に初めて石原さんと会いましたね。あんまり身近にいるんで、緊張して、興奮して、悪酔いしちゃった。ひどく酔っぱらって、気が付いたら、石原さんのお宅にいた。泊めていただいたんですよ。早朝にこそこそっと帰って、撮影所で平謝り。みんなに笑われましたねえ」。

　恐縮しきりの一夜を経て、大スターとの距離は一気に縮まった。共演時には、撮影所から裕次郎を自身の車の助手席に乗せ、自宅に送り届けて、一緒に飲んだ。横浜まで車を飛ばしたこともあった。

　「最初の出会いがあってから、とてもかわいがってくれた。成城の家によく呼んでくれて、『タツ、ウチに来て日光浴しろよ。プールで泳げよ』ってね。飲みに行く時は『お前が運転しろ』って言われて、僕のブルーバードに乗ってもらった。石原さんは運転手付きの高級車で通っていたけど、そういうのは好きじゃなかったみたい」。

　６９年公開の映画「嵐の勇者たち」で共演したのを最後に、裕次郎は石原プロでの活動に集中。藤との交流は少なくなった。

　「石原さんの結婚記念日（１２月２日）に毎年やっているパーティーに、家内は昔から行ってましてね。石原さんが『タツはどうした？　元気か？』って言っていたと聞くと、なんか緊張しちゃう。新人だった昔と同じですよ」。

　芦川は日活の看板女優として、裕次郎や妻まき子と共演。藤も裕次郎と一緒に映画９作品に出演したが、７０年代以降はスタジオですれ違い、短くあいさつする程度だった。「申し訳なくて、ごあいさつに行かなきゃ」と思いつつ、裕次郎が亡くなる数年前にようやく自宅へ訪問。会うのはこれが最後になった。
　「その時に写真を一緒に撮らせてもらって、今でも家に飾ってあります。僕ら夫婦が一緒になる時、お世話になりましたからね。妻を大事にしなきゃ、天国の石原さんにぶん殴られるよ（笑い）」。裕次郎に代わって助手席には芦川が座り続けた。夫妻は昨年、結婚４０周年を迎えた。（この項終わり＝敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎の酒豪伝説　慶大在学中、友人２人と熱海へ旅行に出かけ、居酒屋に入った。話が弾み、次々とビールを注文。数時間飲み続け、店を出る時にビール瓶の本数を数えたら、４３本だったという。裕次郎はビールも好んだが、ビール党というわけでもなく、日本酒をはじめ、ワイン、ブランデー、ウイスキーなど好き嫌いなくアルコールを楽しんだ。深酔いして乱れた姿を見た人はほとんどなく、常に明るい酒だったという。
      ６０年９月　映画「あした晴れるか」の撮影ロケを行った石原裕次郎と芦川いづみ
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   <title>（17）藤・芦川の結婚取り持つ</title>
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   <published>2009-06-25T06:04:49Z</published>
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      　６２年に日活からデビューした藤竜也（６７）は、７歳上の看板スター石原裕次郎にかわいがられた１人だ。妻芦川いづみ（７３）は裕次郎の相手役で人気者になり、日活を支える看板女優だった。その後、ダンディズムを象徴する名優として活躍する藤も、出会ったころは撮影の時には大部屋にいる駆け出しだった。映画界では同じ会社のスター同士の結婚ですらタブーとされていた時代。そんな“格差婚”が日活に許してもらえるわけがない。藤の悩みは深かった。

　「僕とは全然違って、家内は雲の上の人だった。それでも好きになっちゃった。僕が簡単に『スターの女優さんと結婚したい』と会社に言っても、ややこしいことになる。結婚は決めたんだけど、どうしようかな…と思っていた」。

　ある日、裕次郎に「付き合っている女の子はいるのか？」と聞かれた。芦川と正直には言えない。苦し紛れに「いないこともないんですけど…。大学生です」と答えたが心苦しかった。

　「石原さんにウソをつくのは嫌だった。数日後、事前連絡なしに、昼間に石原さんの家を訪ねた。石原さんはまだ寝ておられたので、お庭で日光浴をしながら待った。そのうち起きてきて、いづみさんのことを話しました。『反対されるかな、怒られるかな』と思ったけど、石原さんは『良かった、良かった』って喜んでくれて。夜中まで一緒に飲みました」。

　あらためて芦川と２人で裕次郎に会うと、裕次郎は「よし、オレに任せろ。タツは何も心配しなくていいから。オレがちゃんとしてやるから」と励ました。自分も６０年に共演者の北原三枝（現石原まき子）と結婚する際、スター同士のため会社に猛反対された。それでも、２人で数週間米国に脱出するという強硬手段で認めさせた経緯があり、人ごととは思えなかった。

　約１週間後、藤は裕次郎から『今日、タツ来い』と連絡を受けた。芦川と裕次郎宅を訪問し、しばらく玄関横の小部屋で待機した。呼ばれて別室に入ると、日活の重役陣が並んでいた。

　「僕の結婚の件だけで呼んだのか、別の用事があったのか、分かりません。石原さんが『芦川いづみさんとタツがこういうことになったから、よろしく』と一言。重役の皆さんは、何も言いませんでした」。

　藤夫妻の結婚式は６８年、都内の日活ホテルで行われた。裕次郎は藤にタキシードを贈るなど、最後まで面倒見がよかった。

　「仲人は別の方でしたけど、石原さんが段取りとか、全部やってくれました。結婚費用は、僕の貯金の中でやりました。お金がなかったから、食事はサンドイッチと鶏の空揚げなどを出しただけでした」。

　俳優と女優の挙式としては地味だったが、底流には裕次郎の生き方があった。

　「僕も強情なところがあるし、突っ張るのは平気。そういうのは、石原さんから教わったような気がする。『（結婚式は）自分でできる範囲でやればいいんだ』ってね。直接言われたわけじゃないけど」。（敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎と赤木圭一郎　赤木は５８年（昭３３）に日活第４期ニューフェースとして入社。同年に裕次郎主演「紅の翼」に出演。５９年「若い川の流れ」など裕次郎映画に出演後、宍戸錠を敵役にした「拳銃無頼帖」シリーズでスターに。裕次郎は同じ湘南育ちもあって赤木をかわいがり、自宅にもよく泊めた。赤木は６１年、裕次郎が志賀高原でスキーをして骨折し入院した慶応病院に見舞いに訪れた２日後、日活撮影所内でゴーカートを運転中に事故死。２１歳だった。
      ６１年７月　映画「あいつと私」の撮影を行った石原裕次郎と芦川いづみ
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   <title>（16）ボスが看取ったのはゴリだけ</title>
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   <published>2009-06-24T01:58:27Z</published>
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      　日本テレビの刑事ドラマ「太陽にほえろ！」が１９７２年（昭４７）から始まった当初からのキャラクターだったゴリこと石塚誠巡査長が、ついに殉職する日がやってきた。１２年目のことだった。

　ボスこと藤堂捜査一係長を演じた石原裕次郎に竜は、テレビには長く出続けることが大切と言い、結果、「太陽に－」は世代を超えた人気番組に成長した。裕次郎は竜に感謝の気持ちを持っていたのかもしれない。ゴリの殉職シーンでは、ボスが救急車に一緒に乗り込み、最期をみとったのだ。多くの刑事が殉職したが、ボスがみとったのはゴリだけだった。

　竜は「殉職は僕にとっての卒業のようなものでしたから、ボスにはうれしく卒業します、と言いました。私の殉職シーンだけボスが付き添って、みとってくれたことは私の自慢です。本当にうれしかったです。もちろん、岡田プロデューサーをはじめとした方が、どういう殉職にするか決めるわけですが、ボスが芝居で気持ちを見せてくれたのかもしれません」と話す。

　ドラマを企画し、裕次郎に出演交渉し、かかわり続けた岡田晋吉プロデューサーは「石原さんも竜君には何か思うところがあったのだと思います。制作サイドも『太陽にほえろ！』を支えてくれた竜君にお礼を言いたい気持ちを強く持っていました。番組も２時間に延長して『特別番組』としました」と言う。裕次郎は寡黙で、感謝の気持ちを雄弁に語るタイプではない。竜が言うように芝居で、竜の卒業を祝福してくれたのだ。

　最初は渋々テレビの世界にやってきた裕次郎だったが、貪欲（どんよく）に、しかしスマートに、ドラマ制作のノウハウを吸収していった。

　「ボスはいつもにこにこ笑ってて、『今度の台本はどんな話だ？』なんて聞いたりするんだ。でも、本当は全部知ってた。セリフは現場で覚え、台本は読んでいない、なんて言われたけど違うよ。そうやっていろんな人に語らせて説明させることで、台本をどう作って、どこを直せばいいかを研究していたんですよ。研究熱心で、頭のいい方でしたから、脚本、撮影、お金をどこにどう使うかなど、自分で学んだ方法を、石原プロに投げ掛けたりもしたんでしょうね」。

　８１年に解離性大動脈瘤（りゅう）で手術したのを最初に、「太陽に－」の後半は、裕次郎にとっては病との闘いでもあった。竜をはじめ出演者たちには、どっしり構えていたボスの不在はこたえた。「（入院中の）ボスに会いに行くと迷惑かなと思ってましたが、今思うと甘えておけばよかった。何を話すというのではないですが、あの方の大きさに触れていたかった。亡くなってからも存在が消えることはないです。まさにボスでした。いつか乗り越えてやる、なんて存在ではないんです。いつまでもこの差は埋まりません」。

　竜は今でも裕次郎を「ボス」以外の呼び方では呼べない。（敬称略＝この項終わり）【特別取材班】

　◆裕次郎と元祖会　大学時代に湘南で一緒に遊んでいた仲間１５人で結成した。裕次郎は、のちの若者たちの代名詞「太陽族」の象徴として知られるが、「太陽族のもとになったのはおれたちだから」と仲間を集めて元祖会と名付け、年に何回か集まって飲み会を開いたり、ゴルフを楽しんだ。そろいのブレザーも作り、ポケット部分には「元祖」と刺しゅうを入れた。裕次郎は元祖会について「忘れることのできない青春の思い出」と語っている。
      ８２年９月、「太陽にほえろ」１０周年パーティーで談笑する竜雷太（左）と石原裕次郎
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   <title>（15）ゴリの殉職シーンはボスのお礼</title>
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   <published>2009-06-23T05:57:04Z</published>
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      　１４年間にわたって続いた日本テレビ系連続ドラマ「太陽にほえろ！」は、石原裕次郎のドラマにおける代表作になった。

　１９７２年（昭４７）の放送開始から１０年をともにした竜雷太（６９）が初めて裕次郎に会ったのは、七曲署捜査一係室のセットだった。ボスこと、捜査一係長の藤堂が裕次郎、竜は豪快で新人をしかりとばす巡査長のゴリこと石塚役だ。

　「高校、大学時代にあこがれて、同じ３２インチのパンツを引きずってでもはいていたくらいで、遠い遠い人でした。ドラマでご一緒することになって、３２歳で初めてちゃんとお話ししたんですが、すごく丁寧な言葉づかいで、本当に紳士なんですよ。どんな新人に対してもそういう態度だったんです。常に『自分はテレビの世界では新人』と思っていたんじゃないでしょうか」と振り返った。

　映画で育ち、映画で国民的スターになった裕次郎は、当初、テレビドラマに出演することを渋っていた。映画は斜陽の時代を迎えていた。日本テレビプロデューサーの岡田晋吉はテレビの持つ力の大きさを説き、交渉にあたった。そして、承諾は取り付けたが、初めて撮影現場で会った時もまだ、裕次郎はテレビに懐疑的だったという。

　番組が開始すると、たちまち人気になり、ボス、ゴリをはじめ、マカロニ（萩原健一）殿下（小野寺昭）ジーパン（松田優作）らキャラクターにも熱狂的なファンがついた。ただ、裕次郎は映画への思いが強く「太陽に－」も長く続けるつもりはなかった。

　岡田によると竜は、テレビには長く出続けないと意味がない、と進言したという。新人で「これが青春だ」に抜てきされ人気俳優になり、「でっかい青春」「東京バイパス指令」などに主演した竜は、テレビの影響力と流行サイクルの早さを体感していた。「ボスにはボスの覚悟があったから、僕の言葉は関係ないですよ」と笑うが、テレビと映画について話した時のことを覚えている。

　「２年目くらいかな、飲んで話してる時『やっぱりテレビより映画だよ』って何度もおっしゃったんですよ。だから『ボス、僕はテレビで育ってきたんですから、もうそんなこと言わないでください。映画、映画って言わないでください。ドラマで頑張ってほしいんですよ』って、酔って言ったんですよね。ボスは『お前はしつこいなあ』と笑っていましたが、後々、奥さん（石原まき子）が『よく言ってくれたわね』って。ボスは僕に、映画の話はしなくなりましたが。今生きておられたら、やっぱり映画を作って名プロデューサーになってたと思います。『竜ちゃん、こんな役あるんだけど、どう？』って、声をかけてくれるんじゃないかなあ」。

　ドラマで頑張ってほしいと言ってくれた竜に、裕次郎は感謝の気持ちを持っていたのかもしれない。それがゴリの殉職シーンに表れている。（敬称略）
【特別取材班】

　◆竜雷太（りゅう・らいた）本名・長谷川龍男。１９４０年（昭１５）１月２１日、大阪生まれ。日大芸術学部を中退し、米国で芝居を学ぶ。６６年、学園ドラマ「これが青春だ」の教師役で人気に。以後、ドラマ、映画などで、活躍を続けている。主な出演作に、ドラマ「金曜日の妻たちへ」「独眼竜政宗」「ケイゾク」「黒部の太陽」など、映画は「燃えろ！青春」「釣りバカ日誌」シリーズ、「２０世紀少年」など多数。血液型ＡＢ。

　◆裕次郎と絵画　母親が東京芸大への進学を希望したほど、絵の才能に優れ、裕次郎も幼少時から絵を上手に描いた。スペインの画家サルバドール・ダリの影響を受け、人物画や自画像を残している。映画のロケ先では、空き時間にスタッフの似顔絵を描くこともあった。６２年の映画「銀座の恋の物語」では、画家志望の青年を演じた。おいに当たる、兄慎太郎の四男延啓（のぶひろ）は画家。
      ８０年代の「太陽にほえろ！」のメンバー。左から露口茂、沖雅也、下川辰平、竜雷太、小野寺昭、木之元亮、山下真司。手前はボスの石原裕次郎
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   <title>（14）小百合、無言の優しさ今でも</title>
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   <published>2009-06-20T04:06:20Z</published>
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      　病室のドアをノックすると返事が聞こえた。緊張気味の吉永小百合（６４）は、そっとドアを開けた。ベッドの上で体を起こした裕次郎は「小百合ちゃん、頑張りなさいよ」と声を掛けた。１９８４年（昭５９）の夏。裕次郎は東京・慶応病院に入院していた。吉永も夫の岡田太郎（７９）が同じ病院に入院していたのだった。裕次郎がいると知り、見舞いに駆けつけた。でも、何より先に自分を励ます言葉を掛けられたことに驚いた。「いろいろと大変だろうけど、頑張りなよ」。裕次郎は岡田の入院をすでに知っていた。立ったままの吉永は「裕次郎さんこそ、お大事になさってください」。裕次郎の「おぉ、ありがとう」という笑顔を見届けると部屋を出た。「何とも言えないやさしさに触れて感激しました」。

　思えば、いつ会っても緊張していた。日活入りしたのは１５歳。２５歳だった裕次郎はすでにトップスターだった。中学時代、裕次郎の主演映画をよく見た。「家が裕福ではなかったので、封切り後すぐは無理でしたが、３本立てになると映画館に行きました。私にとっては銀幕の大スター。撮影所でお見かけしても、うつむいてしまい、お顔をまともに見ることはできませんでした」。

　２年目に映画「あいつと私」で初共演した。裕次郎の相手役、芦川いづみの妹役だった。「３シーンほどご一緒させていただきました。こちらは中学を卒業したばかりの子ども。裕次郎さんとお話できるだけの話題もありませんし、何より緊張してしまって一言も話せませんでした」。

　その１年後、映画「若い人」で再共演した。裕次郎演じる教師に思いを寄せる女子高生役だった。相変わらず緊張で世間話もできなかった。「演技に懸命だった自分を気づかってくれて、裕次郎さんも話しかけなかったのかも知れません」。東京・お茶の水のニコライ堂前。雨降る中の夜間撮影だった。抱きついて「私のこと好き？」と思いをぶつける場面だ。「裕次郎さんの胸に思いきりしがみついた時の感触は今でも残っています」。

　無言のやさしさを感じたことはまだあった。１９歳の時だった。自宅に変質者が侵入し、駆けつけた警官がけん銃で撃たれ重傷を負う事件があった。ショックのあまり、女優を続けていく自信を失いかけていた時に、１通の手紙が届いた。差出人は裕次郎の妻まき子だった。「こんなことに負けないで、仕事を続けてください」。まき子の気づかいに感謝すると同時に、文面から「裕次郎さんも一緒に心配してくださっているような気がしてなりませんでした」。

　その後、本格的な共演はなく、裕次郎はいつまでも「緊張して何も話せないスター」のままだった。慶応病院の裕次郎の病室を出て廊下を歩き始めた吉永はふと思った。「時間はとても短かったけど、初めて会話ができたのかもしれない」。裕次郎に会ったのは結局、これが最後となった。（敬称略）【特別取材班】

　◆吉永小百合（よしなが・さゆり）１９４５年（昭２０）３月１３日、東京都生まれ。５９年松竹「朝を呼ぶ口笛」で映画デビュー。６０年日活入り。６２年「キューポラのある街」でブルーリボン主演女優賞など各賞受賞。７０年に日活と専属ではなく出演契約を結ぶ。おもな出演作は「動乱」「華の乱」「北の零年」「母べえ」など。最新作は「おとうと」（来年１月公開）。７３年に当時フジテレビのディレクターだった岡田太郎氏と結婚。

　◆裕次郎の高校時代　慶応高校時代から、めちゃくちゃモテたそうだ。トレンチコートを粋に着こなす、珍しい高校生はどこでも目立った。昼時になると、わざわざ弁当を届けにくる近所の女子生徒もいたという。また、旅先でお座敷遊びをしたり、銀座に繰り出すこともあった。遊び方はまったく高校生らしくないが、哀愁を帯びた民謡が大好きな一面もあったという。
      ６９年１２月、石原プロ７周年記念パーティーに出席した吉永小百合（右端）、左へ石原裕次郎、石原まき子夫人、浅丘ルリ子
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   <title>（13）仲代「伝説にかなう存在」</title>
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   <published>2009-06-19T04:02:09Z</published>
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      　仲代達矢（７６）が楽屋に入ると、先客がいた。白い背広に長い足の青年。「裕次郎さんでした」。１９５６年（昭３１）春。仲代２３歳、裕次郎２２歳。この日、仲代は初めて調布の日活撮影所に出掛けた。「火の鳥」で映画初出演することになり緊張していた。裕次郎は兄慎太郎の小説を原作にしたデビュー映画「太陽の季節」出演のため楽屋で待機していた。互いにあいさつし、裕次郎は「兄貴の映画にちょっと出るだけで、俳優になろうとは思ってません」と言った。しばらくすると、裕次郎は楽屋の鏡の前に長い足を投げ出し、グーグーといびきをかいて寝てしまった。「僕は緊張でガチガチだったのに、度胸のいいヤツだなと思いました。長い足で歩く格好の良さを見ただけで、人気者になると直感しました」。

　仲代が裕次郎の背中を追い掛けたことがある。２年後の５８年、裕次郎が「俺は待ってるぜ」など大ヒットを飛ばしたころ、仲代も裕次郎と同じテイチク専属になった。テイチクには「第２の裕次郎」のもくろみがあり、４枚のレコードを出した。「裕次郎さんがレコーディングでビールを飲んでうまくできたという話を聞き、ビール１ダースを飲んで吹き込んだ。でも、売れませんでしたけどね」。

　６９年、石原プロモーション製作の「栄光への５０００キロ」で初共演した。三船敏郎も出演したが、仲代と三船の間には険悪な空気が流れていた。その年、仲代の主演映画「御用金」で三船が撮影半ばで突然降板した。直後の撮影だけにわだかまりがあった。裕次郎は出番がない時も現場によく顔を出した。「大人だから、撮影ではちゃんと芝居をしたけれど、それ以外は顔を合わせなかった。２人の間に入って、裕次郎さんは場の雰囲気をなごまそうと気を使ってくれた」。裕次郎の存在が２人の決定的な激突を回避させた。

　裕次郎との共演は６９年「人斬り」を含め２本だけだが、俳優裕次郎に一目置いていた。裕次郎は「昨日は一晩中飲んでしまって台本を読んでいない。今日はどこをやるの？」と言っていても、ＮＧを出すことはなかった。「偽悪的なことを言うシャイな人だった」。仲代は裕次郎、三船、勝新太郎、萬屋錦之介の４人とも親交があった。「三船さんや錦ちゃんとは演技論をよくしたし、けんかもした。裕次郎さんとはそういう話はしなかったけれど、僕らのような新劇育ちは頭でっかちで、体を自由に動かせない所があるのに、彼の演技は自然体で、自分そのものをぶつけてくる。スケールが大きかった」。

　自らプロダクションを立ち上げ、映画製作にも乗り出した４人の大スターが鬼籍に入って久しい。「役者は死んでしまえば、忘れられていくけれど、裕次郎さんだけは違った。石原軍団を作り、頂点に裕次郎さんがいた。亡くなった後も彼を慕う俳優、スタッフ、ファンが伝説を伝えてきた。裕次郎さんは伝説にかなうべき人だった」。（敬称略）【特別取材班】

　◆仲代達矢（なかだい・たつや）１９３２年（昭７）１２月１３日、東京生まれ。俳優座養成所を経て、５５年に俳優座入団。代表作は舞台「どん底」「リチャード三世」、映画「人間の條件」「用心棒」「影武者」「乱」、ドラマはＮＨＫ大河「新平家物語」「大地の子」など。７５年から無名塾を主宰し、０７年文化功労者。

　◆裕次郎の苦手な食べ物　嫌いなものは少なかったが、鶏肉は苦手だった。幼稚園のころ、母光子さんとデパートに行き、食堂でチキンライスを食べた。ところがその中の鶏肉の皮に、数本の毛が付いているのを発見。光子さんによると裕次郎は相当のショックを受けた様子で、以来、鶏肉を食べなくなったという。妻まき子さんにも「鶏肉を見ると寒気がする」と話していた。
      映画「栄光への５０００キロ」の１シーン
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   <title>（12）松方「日本映画界に咲いた見事な桜」</title>
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   <published>2009-06-18T01:49:25Z</published>
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      　射撃が趣味だった松方弘樹（６６）は裕次郎から愛用ライフルを譲り受けたことがある。７８年に裕次郎が舌がんの手術を受けた後のことだった。後から振り返れば形見分けのような意味合いもあった。

　滋賀の彦根城でロケをしていた松方のところへ、裕次郎から突然、電話が入った。携帯電話などない時代のことだ。受話器を取った社務所の職員は、天守閣のてっぺんにいる松方のところへ、大汗をかきながら飛び込んできた。「裕次郎さんから電話です。連絡が欲しいと言っています」。「一体、何ごとかっ」。休憩時間になるや、急いで山を下りた松方の耳に飛び込んだのは「おれ、もう鉄砲を撃たないから。ライフルをお前にやるよ」だった。裕次郎がハワイで買ったウインチェスター３００６。以来、６０歳を過ぎるまで約２０年間、裕次郎の分まで愛用した。

　数年前、松方が鉄砲撃ちをやめることにした際には、まき子に相談した。２０年以上も愛用し、裕次郎の形見となっていたからだ。「砲身に鉛を詰めれば装飾品として飾れます。北海道の石原裕次郎記念館に飾ったらどうですか」。でも、まき子の答えは「それはもういいわ。あなたの好きなようにしてちょうだい」だった。鉄砲撃ちは女性が入りにくい世界。まき子には男同士だけで楽しむ野蛮なスポーツと映っていたようで、ライフルを構える裕次郎は好きな裕さんではなかったのかもしれない。このライフルは現在、松方の友人が大切に預かっている。

　俳優として第一線で活躍し続ける松方の耳には「俳優は男子一生の仕事にあらず」という裕次郎の言葉が今も焼き付いている。「一役者では飽き足らなかったのでしょう。だから、プロダクションも作ったし、映画製作もした。それだけ、スケールの大きな人だった」。「おれはつぶしがきかないから、今も芝居をやっているんです」と謙遜（けんそん）する松方だが、裕次郎と同じく役者の枠をはみ出した道を歩んできている。

　０３年には「ＯＫＩＴＥ・やくざの詩」で映画監督に初挑戦。プロデューサーとしても４作の映画に関与。９５年には「蔵」で日刊スポーツ映画大賞の石原裕次郎賞を受賞した。「俳優ながら、映画作りにかける情熱が裕次郎さんにオーバーラップする」と高い評価を得た。裕次郎の誕生日である１２月２８日の授賞式ではまき子が「良かったね」と目を潤ませた。裕次郎との共演は１度もなかったが「これだけの思い入れを持っている俳優はほかにいない」と言い切る松方の目にも涙が光った。

　５２歳の若さで裕次郎は逝った。松方は裕次郎を「桜」だと話す。「若くして華やかなまま亡くなった。早死にしたのはもちろん悲しい。でも、スターとしての生きざまはすばらしいし、きれいな盛りに散った。日本映画界に咲いた見事な桜です」。６６歳の松方も、裕次郎のような「桜」になりたいと願っている。（敬称略）【特別取材班】

　◆裕次郎と車　ベンツ３００ＳＬガルウイングが、愛車として知られる。５４年発売のスポーツカーで、カモメの翼のように左右のドアが上方に大きく跳ね上がる。当時、この車は日本には２台しかなく、もう１台は力道山が購入。２人が同じ車で競争したという“伝説”が残る。ロールスロイス・シルバースピリットも所有したが、自分では運転せず、後部座席に座ることが多かった。
      ９５年１２月、日刊スポーツ映画大賞の石原裕次郎賞を受賞した松方弘樹（左）と祝福する石原まき子（右）
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   <title>（11）松方「初対面でいい思い出」</title>
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   <published>2009-06-17T03:29:03Z</published>
   <updated>2009-06-20T02:35:47Z</updated>
   
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      　松方弘樹（６６）は、あこがれだった裕次郎と初めてあいさつを交わした日、いきなり自宅にまで連れて行かれた。そして、何杯ものグラスを開け朝まで飲み明かした。

　忘れもしない６６年１２月のことだった。東京・千代田区にあった日活ホテルのバーで１人酒を飲んでいた松方に、遠くから「おーい、おーい」と呼ぶ声がした。「シルエットからすごく姿形のいい人なのは分かった。でも照明が暗くて顔が見えない。誰だろうと思いながら近づいたら裕次郎さん。そりゃ、びっくりしましたよ」。当時は所属する映画会社ごとに活動が制限される五社協定が存在した。東映の松方と日活の裕次郎とでは仕事上の接点は一切ない。「お前、暇か？」「はい」「そうか。じゃ、おれの家に行こう」。戸惑いや遠慮の生まれる余地さえない。２４歳の松方はすでに大スターだった８歳上の裕次郎の言葉にただ従った。

　東京・成城の自宅に到着すると、約１０段の階段を上った玄関先で５年前に結婚したばかりのまき子が出迎えてくれた。「階段の下からパーンアップして、最初に視界に入ったのが足。うわー、まっすぐできれいな足だなと思って階段を上がったら北原三枝（まき子の女優名）だった。当時の日本人からすると破格のスタイルですよ」。松方は「せっけんのにおいのする女が好きだ」と裕次郎が言っていたのを覚えている。「小またの切れ上がった、まさに言葉どおりの女性が目の前にいたマコ姉ちゃんでした」。

　愛用のソファに寝そべり、まき子のひざ枕でいつものブランデーを口にする裕次郎。ＢＧＭに流れたのは、レコーディングを終えたばかりの「夜霧よ今夜も有難う」と「粋な別れ」だった。「お前、どっちがいい？」。そのころ、レコード会社テイチクでは、どちらの曲をＡ面にするかで意見が割れていた。松方は「『夜霧－』の方が歌いやすいけど、『粋な－』の方が好きです」と感想を口にした。翌年２月にＡ面を「夜霧－」にして発売されたレコードは、わずか数カ月で１００万枚を突破する大ヒットになった。

　グラスを手に、ときおりうとうとする裕次郎。まき子が「裕ちゃん、風邪をひかないでね」と優しく声をかける。松方も「そろそろ帰ります」とまき子に小声でささやくと「おいお前、もっと飲め」。目を覚ました裕次郎が引き留めた。そんなことを何回か繰り返しながら、気がつくと夜が明けていた。松方が裕次郎の生前、自宅を訪問したのはこれが最初で最後。「歌のタイトルじゃないけど、裕次郎さん、初対面でいい思い出をありがとうです」。（敬称略）【特別取材班】

　◆松方弘樹（まつかた・ひろき）本名・目黒浩樹。１９４２年（昭１７）７月２３日、東京都生まれ。高３で父の近衛十四郎が所属する東映に入社。同年「十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ」でデビュー。以来、数多くの時代劇、任きょう映画に主演。テレビは「名奉行遠山の金さん」「刑事貴族」「ＨＯＴＥＬ」など。映画監督としては０３年に「ＯＫＩＴＥ・やくざの詩」を手掛けた。プロデューサーとしては「蔵」で９５年度日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞を受賞。今年はＮＨＫ大河ドラマ「天地人」で徳川家康役、映画「ＴＨＥ　ＣＯＤＥ」「ＴＡＪＯＭＡＲＵ」に出演。血液型Ａ。

　◆裕次郎と洋服　１０代のころからおしゃれに興味を持った。父親のスーツを自分の寸法に仕立て直し、革ジャンを着こなした。自ら洋服のデザインを手掛け、襟やポケットの形、裏地まで的確に指示したという。専属デザイナーに発注した洋服は、５０００着以上。結婚式やステージ上の衣装など、大量の洋服の収納場所に困り、自宅の屋根裏を改造して、ガウンやセーター類を並べていた。
      自宅の庭でトレーニングする石原裕次郎をいたわるまき子
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   <title>（番外編）記者たちと赤ちょうちん</title>
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   <published>2009-06-16T06:39:00Z</published>
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      　この夏、１９８７年（昭６２）７月に亡くなった石原裕次郎さんの二十三回忌を迎える。６月１日からスタートした連載「裕次郎とともに」では、裕次郎さんが縁の深い人たちとともに残したエピソードや思い出を紹介しています。番外編となる今回は、海外ロケの同行取材をきっかけに立ち上がった新聞記者との親ぼく会「ナイロビ会」で見せた裕次郎さんの素顔を、元日刊スポーツ文化部記者の吉田一郎さん（７６）が語ります。

　裕次郎率いる石原プロは大作「黒部の太陽」の大ヒットで勢いづき、長期間のアフリカロケを敢行する「栄光への５０００キロ」の製作に乗り出した。１９６９年（昭４４）４月、同行取材を終えた新聞記者たちは帰路の機内で「石原さんと仕事抜きの飲み会を開こう」と盛り上がった。自由化されたとはいえ、海外渡航だけでも貴重といわれた時代。破格のスケールで行われた撮影の熱気と興奮が冷めなかったのだった。「そんな気持ちをさらっと置き去りにするのは惜しかったんです」（吉田）。帰国後に提案を聞いた裕次郎は「うれしいことを言うね」と喜んだ。こうしてスポーツ紙５社、一般紙３社、芸能ニュース社１社の記者計９人に裕次郎が加わった親ぼく会「ナイロビ会」が誕生した。

　第１回会合は翌７０年、吉田の行きつけだった東京・築地の天ぷら店「天六」で開いた。庶民的な店だったが、裕次郎は「こういうところが僕は一番好きなんだ」と喜んだ。ナイロビ会には２つだけ約束事があった。①会費は１人５０００円②仕事の話はしない。もちろん裕次郎も例外ではない。当時から財布を持ち歩かなかった裕次郎は、出がけに妻まき子から“お小遣い”として１万円札を渡された。店に着くと、ポケットから折りたたまれた１万円札を取り出し「会費 ！ 」と差し出した。おつりの５０００円札を受け取ると、その手触りを楽しみながらポケットに収めた。吉田は「そのとき見せた何とも言えないうれしそうな顔が忘れられません」という。

　その後も会場を浅草や銀座、新宿の赤ちょうちんなど毎回変えながらナイロビ会は毎年開かれた。多いときには年３回も行われた。吉田は「バカ話をして歌って飲んで。まるで同窓会のようでした」と振り返る。会の発足から７、８年が過ぎたころだった。「今度はおれの別荘でやろうよ」と裕次郎が言い出した。こうして毎年秋、山中湖畔の別荘で２泊３日を過ごすことが定例となった。全員で米を炊きみそ汁も作る。裕次郎も野菜や漬物を刻み、バーベキューの薪（まき）も一緒に割った。「スターも記者も立場は関係なし。記者が芸能担当を離れて異動しても会社を辞めても、石原さんはお構いなしで楽しんでました。元来友情など成立しない間柄のはずなのに。今思えば不思議な関係でした」。

　大動脈瘤（りゅう）手術後の８２年も、裕次郎の呼び掛けで会は東京・赤坂東急ホテルで開かれた。裕次郎は「年を取ったらつえをついて、みんなでナイロビにもう１度行こうよ」と言った。病後で心配しながら集まったメンバーも笑顔につられて「いいね」と笑った。裕次郎が２年後に再び体調を崩したため、これが最後の会となった。

　裕次郎の親友、勝新太郎はナイロビ会について「記者たちとの集まりが、そんなに長続きするなんて、奇跡としか言いようがない」とあきれていたという。裕次郎は記者との交流も型破りだった。（敬称略）【特別取材班】

　◆吉田一郎（よしだ・いちろう）１９３２年（昭７）８月４日、神戸市生まれ。５５年に日刊スポーツ入社。運動部記者としてバレーボール、卓球などアマチュアスポーツを担当。６１年に文化部に異動。映画や放送を担当し、石原裕次郎の番記者も務める。正月紙面として裕次郎と三船敏郎の対談も実現させた。７３年に依願退社し、大阪市内で飲食店を開業。店名は裕次郎が名付けた「美酒都牢（ビストロ）」。

　◆裕次郎と日刊スポーツ　裕次郎は、日刊スポーツが日本初のスポーツ紙として４６年（昭２１）３月に創刊されると「珍しくてむさぼり読んだ」という。戦後は物資も乏しく、一般紙もページ数は少なかった。創刊当時の日刊スポーツについては「たった１枚だったはず」とのちに振り返っている。学生時代から新聞好きで、スターになっても一般紙もよく読み、スポーツ好きなこともあってスポーツ紙にも目を通した。毎朝起きたら新聞を読むことが「習慣だった」という。
      １９７１年夏、熱海の温泉で裕次郎の快気祝いも兼ねて行われたナイロビ会
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