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新庄カウントダウン

オリックス中村監督「幸せを祈ります」

shi-060906-1.jpgオリックスの中村監督

 野球選手・新庄のスター選手の資質を見いだした「育ての親」の目は、優しかった。オリックス中村勝広監督(57)が最愛の教え子との別れを惜しんだ。日本ハム新庄剛志外野手(34=SHINJO)を阪神入団時から見守り、大胆起用でスター選手への道筋をつくった恩師。阪神復興への足掛かりをつくる「亀新フィーバー」を巻き起こした。人気球団への立て直しへ向かってともに歩んだ日々を懐かしみ、第2の人生へ熱いエールを送った。

 -突然の引退表明に

 中村監督「彼のことだから冗談だと思った(笑い)。球界にとって、もったいないこと、残念だなと。まだまだ体は元気ですしね。ああいうスターが1人球界から去るというのは、このご時世で非常に残念」

 -予想はしていた

 中村監督「いやいや。全然、考えていなかった。ぶっちゃけたところ、昨年か一昨年かな「最後は大阪に行きます、行きません」とかね、冗談を言ってましたよ。それが少しは頭の中にあって、最後は(オリックスで)一緒にやれたらいいなあと思ってました」

 -03年オフの日本復帰時、当時はオリックスGMで新庄獲得に興味があった

 中村監督「もちろん興味はあったけれど(当時の伊原)監督のタイプがね、違ったんだよね。あれは仰木さんだったら(獲得に)いっているよね、恐らく。ちょっと(金銭条件も)高いんちゃうかという意識もあった。でも後で聞いてみると、非常にリーズナブル。しまった、と思った。(※注1)」

 -阪神監督として最初に見た印象は

 中村監督「(背番号)63番を着けて安芸の球場でマシン打撃をやっていてね。2軍の練習を視察して、その時もポンポンとフェンス越えするバッターがいて「誰や」と見たら、新庄や。興味と関心を持った。ひょっとしたら戦力になるんじゃないかなと」

 -入団時から目立っていた

 中村監督「もうちょっと早く(1軍へ)来ると思いましたよ。当時はファームにいた。オマリーが故障したんでサードを1人、練習させようと。いきなり有働、その当時は大洋かな(※注2)。カーブかスライダーをいきなりホームラン。鮮烈に残っていますね」

 -一気にブレークした

 中村監督「うまくハマりましたわ。亀山と2人で、お客さんを呼んでくれました。あのころは右も左も分からない時代だったんちゃうかな。田舎の青年でしたよ。だけど将来、必ず阪神を引っ張る選手になると。思い切りが非常に良かったですから。意外性もありました。足と肩は大きな魅力でした。打撃はまだまだでしたけれど大仕事をするタイプ。これ以上、使いやすい選手はいなかった」

 -阪神の救世主だった

 中村監督「お客さんは連れてくるわ、戦力にはなるわ、これ以上ない選手。いずれにしても最下位、最下位ときて、タイガースも営業も含めて大ピンチの時に、お客さんがあれだけフィーバーしてくれた。タイガースにとって大きな選手の1人だった。よくいう記録ではなく、記憶に残る選手として語り継がれていく選手でしょう」

 -スター選手へと上っていった

 中村監督「その後、彼のキャラがだんだんと表に出てきた。彼らしいな、と思いました。運がいいのはバレンタインのところに行ったということじゃないですか(※注3)。彼の使い方は非常に難しい。あまり頭ごなしに抑えるとといけないタイプ。褒めちぎって、乗せて、力を発揮するタイプ。その監督がバレンタインであったと思う」

 -操縦術は難しかった

 中村監督「亀山と正反対でしたわ。性格的にはね。(亀山は)ほっておくと、とんでもないことをしでかす。何するか分からない。非常に人使いの妙で勉強になった。教材ですね、あの2人は(笑い)。今も怒って、しかってというのはない。褒めることを多くしてという育て方ですから」

 -贈る言葉は

 中村監督「適当にやれ(笑い)。せっかく野球界で、それなりのサラリーをもらってるのにという心配もあるし…。それとよく打つんだよね、うちの試合で。まあつくづく、もったいないなあと思いますわ(笑い)。新庄の幸せを祈ります」(聞き手 オリックス担当・堀まどか、日本ハム担当・高山通史)

 ※注1 03年オフ、米メッツを自由契約になった新庄の獲得に、当時はGMだった中村監督は「人気もあるし守備力もあるし理想的な選手」と当初は興味を示していた。そのオフに新監督に就任した伊原監督も当初は前向きな発言をしていたが、ダイエー(現ソフトバンク)からFA宣言した村松を獲得するなどしたことで、争奪レースから最後は撤退した。

 ※注2 新庄がプロ入り3年目の92年5月26日大洋(現横浜)戦、プロ初のスタメン出場。オマリーの故障で巡ってきたチャンスで、当時は遊撃、外野だったが急造サードで出場。2回にプロ初本塁打を放ち、プロ初のお立ち台に立った。

 ※注3 阪神からFA宣言して01年メッツに入団。当時の監督が現ロッテのバレンタイン監督。

shi-060906-2.jpg阪神対中日 背番号「63」をつけた阪神新庄剛志の華麗な守備=1992年6月28日、甲子園球場

 ◆中村監督と新庄

 新庄が阪神へ、89年ドラフト5位で入団した当時の監督。プロ1年目の90年から、同監督が95年のシーズン途中で解任されるまで伝統のタテジマに袖を通した。新庄の素質を早くから見抜き、プロ初スタメン初本塁打を放った92年からほぼレギュラーとして起用。その年にはヤクルトとシーズン終盤まで首位争い。85年の日本一以後は低迷していたがリーグ2位へと押し上げて虎党を熱狂させ、阪神復活の兆しを見せた。また新庄の起用については外野手から遊撃手へのコンバートなど試行錯誤しながらもレギュラーとして使い続け、素質を開花させた。現在でも新庄は中村監督を慕っており、オリックス戦の前にはあいさつへと足を運び「監督、監督」と呼び、慕う間柄。中村監督は新庄のベストプレーとしてその92年9月16日広島戦(甲子園)で大野から放ったプロ初のサヨナラ本塁打を挙げた。「右中間のハーフライナーを飛び込んで超ファインプレーをした後、大野からサヨナラ本塁打を打った。あのゲームは非常に印象に残っている」と同監督。その直前の8回2死満塁の絶体絶命のピンチで右中間へのライナーをダイビング好捕。まさに独り舞台でV争いをするチームへ7連勝を呼び込んだ一戦が2人の思い出深いベストバウトだ。

2006年09月05日付 紙面から

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