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清原 PL学園特集

PL学園 復刻ニュース

1983年08月22日

PL優勝、1年清原が先制アーチ

<全国高校野球選手権:PL学園3-0横浜商>◇1983年8月21日◇決勝
やったぞ! PL、大旗をとったぞ、1年生コンビ。PLは先発したエース桑田が7回1死まで4安打の力投で藤本との完封リレーを導き、打っても1年生4番清原が2回に右越えの先制アーチを放つ大活躍。初めて決勝に進出した横浜商を3-0で破り甲子園16連勝の新記録で5年ぶり2度目の優勝を飾った。昭和23年に甲子園大会が高校野球と名を変えて1年生投手で優勝したのは初めてのことで逆転のPLにまたひとつ新しい神話が加わった。横浜商は今春の選抜に続いて決勝で涙をのんだ。

 まさに恐れを知らぬ15歳コンビだ。PLの史上最年少1年生エース桑田とPLでは初めての1年生の4番清原は、あれよあれよという間に全国制覇をもたらしてしまったのだ。
 夢にまで見た一瞬、桑田は左翼芝生の上にいた。ウイニングボールは手に出来なかったが、7回1死、3年生の藤本にマウンドを譲るまで横浜商を4安打に抑え込んだ。初回、1死から信賀に中前打され、二盗、三盗を決められても顔色ひとつ変えなかった。それどころか「横浜商は、池田と比べて線が細いなあ」とまるでのんでかかっていたのだ。
 藤本にマウンドを託したあと桑田は芝生のはげた左翼定位置でとてつもないことを考えていた。それは「5季連続制覇」同じ1年生エースとして甲子園を騒がせた荒木(ヤクルト)でさえ果たせなかったデッカイ夢を抱いていたのだ。
 「だって清原がいる。それに2年生は今のチームよりももっと強いんですよ」と桑田は大まじめに言った。
 こんな桑田に清原もあいづちを打った。この日、朝バスで大阪・富田林の合宿”研志寮”を出発するとき桑田にいった。「オレが一発打ってやるから、お前もしっかり投げろ!」この言葉どおり清原は2回、三浦の出ばなをくじく先制アーチを桑田にプレゼントしたのだ。この回、先頭で打席に立った清原は2-2から三浦の外角へ投げ込んだ勝負球を打ちくずし、これが決勝点になったのだ。
 「フォークのすっぽぬけや」と清原は約束を果たしてホッとしたというが、大阪大会から清原のパワーを見慣れている中村監督もこのときは「三浦君の球をあそこまで流し打つなんて」とあきれたほどだ。
 清原は入部直後の初練習でいきなり140メートル級アーチを放ち上級生の度肝を抜いた。200グラムのビフテキ8枚をペロリと平らげ、ナインからは”怪物”キヨマーと呼ばれる怪童は、池田戦で4三振に終わり、この決勝戦にひそかに汚名返上に燃えていたのだ。
 甲子園で1年生をエースとして起用、4番に据えることは中村監督にとっても大きなカケだったが、スーパー1年生コンビは”逆転のPL”にまた新たな神話を作ってしまった。
 「本当にあの2人がこんなに働いてくれるとは…」と表彰式後中村監督は本音をもらした。それもそうだろう。桑田が3月27日に入寮したときはゴキブリがこわくて逃げ回り、夜1人でトイレにさえ行けなかった坊やだった。清原も整列して名前を呼ばれると、顔を真っ赤にする少年だったのだ。
 それからたった5カ月。1年生コンビは全国3568校の頂点にチームを導いたのだ。優勝メダルを胸にかけ、グラウンドを1周した2人は胸を張っていた。「きっとくる。PLの校旗をあと4回、センターポールになびかせてみせる」【川崎】
(1983年8月22日付日刊スポーツ)


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