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2010年7月29日

元西武、中日・玉野宏昌「ニッセイロールペーパー(株)」/引退後記

 ◆玉野宏昌(たまの・ひろまさ)1978年(昭53)6月1日生まれ。兵庫県出身。神戸弘陵から96年ドラフト1位で西武へ入団。巨人にFA移籍した清原和博に代わって背番号3を背負う。99年1軍初昇格。背番号33になった00年は初の開幕1軍登録となり、69試合に出場。だが02年に右肩の故障に苦しむなど、内野手から外野手に転向。04年オフに正津英志、宮越徹との交換トレードで大友進とともに中日に移籍。05年戦力外通告を受け、トライアウト受験もオファーなく現役引退。プロ通算成績は123試合で打率2割8厘、4本塁打、26打点。背番号は3、33、39。182センチ、78キロ。右投げ右打ち。

 背番号「3」と「1」は特別だった。ONの現役時代を知る世代にとって異論はないだろう。その「3」や「1」は今でも主力選手を意味する。引き継がれる伝統。任された責任に苦しむ選手もいる。玉野さんはグラウンドコートを脱ぐことにさえ、おびえた。

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日本ハム戦で本塁打を放つ玉野さん(00年9月13日)
 
 大きな目の笑顔は変わらない。「顔が丸くなっちゃって…」。精悍(せいかん)なマスクを持った大型内野手として西武に1位指名を受けたのが96年。同時期、清原和博氏(日刊スポーツ評論家)がFAでの巨人移籍を決意していた。空いた背番号「3」。玉野さんは言う。「仮契約の時に球団の方が『3になった』と。最初は断ったけど、球団として決めたことだからと言われました。光栄だったけど、かなりプレッシャーでしたね」。

 清原氏の次の「3」に戸惑わない選手はいない。「ボクは甲子園にも出てない。2月のキャンプでもグラウンドコートを脱ぐのが嫌で仕方なかった。(期待に)完全に負けましたね。それがすべて」。周囲の興味は高卒ドラ1「3」に集まる。値踏みするような視線に「ホームランバッターのイメージがあったし、ぶんぶん振り回した。そんなタイプじゃないし、体も出来てないのに…」と振り返る。高校通算本塁打は31本。だが遠投110メートルの強肩と50メートル6秒0の俊足が売り物だった。

 ファーム生活でも重たい背番号から逃れられない。それでも自分の背中は見なくていい。「プロに入って満足しちゃった部分がある。闘争心がなかったというか。練習も大嫌いでした」。1日でも早くスターに育てたい首脳陣の思いとは裏腹に、全体練習が終わるとすぐに寮に逃げ帰る。「寝てたら、コーチによく怒られました」。2軍球場の、近い観客席から聞こえる声…。「3番替えろ」。「背番号が泣いてるぞ」。「ぶっちゃけ(替えたいと)思ってました。精神的に弱いんですよね」という。

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ヤクルトとのオープン戦、守備機会で送球する玉野さん(01年3月12日)

 だが3年目の99年に1軍初昇格を果たした同年オフに「重責」から解放される。新外国人のトニー・フェルナンデスが「3」を希望したこともあり、球団から「6」か「33」への変更を提示された。「ひとけたは重い。ぞろ目もいいかなと思いました」。「33」での再出発はとなった00年には開幕1軍切符を手にした。開幕2戦目に先発二塁で出場し、2安打。「(やれる手ごたえは)ありました」という。権利のあった新人王を目指した。

 だが徐々に調子を落としていく。1、2軍の行ったり来たりの中で、01年、事件が起きる。西武ドームでの1軍戦、二塁での守備機会で簡単にゴロをさばいた。一塁へ送球するはずが、なぜかベンチに向かって球が抜けている。「(ベンチの)東尾監督の方に投げてたんですよ」。イップスの始まりだった。「もともとスローイングが良くなかった。近い距離を投げられないようになった。腕が振れなくて、もう投げたくなかった。(現役)最後の方は外野でしたね」。守備力を上げようと必死に練習する中で陥った、予測不能の事態だった。

 04年オフに中日へのトレードを通告される。だが当時、立浪、福留、井上、ともにトレードとなった大友ら強力な外野陣がひしめき合っていた。「ワンチャンスやなと。打つ方で勝負するしかないと思った。でも全然でしたね…」。1年で戦力外。トライアウト受験も声はかからなかった。現役引退を決めても、夫人との家庭を守らなければならない。西武に同期入団の馬淵隆雄氏が佐川急便名古屋に働いていたことを頼りに06年1月入社する。

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玉野さんは9回裏に1号本塁打を放ちお出迎えを受ける(01年5月1日)

 バットをハンドルに持ち替え、トラック配送の運転手になる。朝6時に出社し、荷物を積み込んで同7時半に出発。午前中は配達に終始し、午後は集荷。退社するのは午後10時ごろだったという。「名古屋で嫁にも友達がいないし、家に帰ってもボクは寝るだけ。さみしかったと思いますよ」。06年11月、知人の紹介で夫人の実家のある東京・清瀬の「ニッセイロールペーパー(株)」へ転職を決めた。西武ドームにも遠くない“地元復帰”だった。

 紙関係を取り扱う同社で営業職を与えられる。流通関係の社に飛び込んだり、既存の店舗回り。都内全域だけでなく関東地方をまたに掛け、走り回る。「すんなり出来ましたよ。頭下げることも嫌ではなかったし、抵抗はなかった」。家族の支えに応えたかった。野球選手とは程遠い仕事内容にも「営業は数字だし、野球と似てるのかなと。自分の目標を下回ったら評価されない。そこにやりがいがある」という。

 プロ球界とは、玉野さんにとってどんな場所だったのか。「一獲千金、やればやるだけ評価されるところですよね。あんなにもらえる仕事、ないですもんね。プロの9年間はずっと苦しかった。楽しい思い出ってないですね。でも何をやっても無駄なことはない。そう思うようにしてます」。後悔は「言い出したらきりがない。あの時やってれば、というのはいくらでもある」と話す。現役の後輩には「悔いのないように、練習はした方がいい」と自戒の念を込めた。

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 夢は小学生の甥(おい)がプロに入ることとという。「いい失敗例がいるんでね」と自虐的に笑った。プロ野球選手だったことを、まるで申し訳なかったことのように…。大きな期待には応えられなかったかも知れない。だが、玉野さんは全力を尽くした。「練習が嫌い」と言っていたが、春季キャンプの夕食後に1人、ゴロ取りの練習を重ねる姿を私は覚えている。「3」の重さと戦った過去は、必ず未来の誰かに引き継がれるだろう。いや、戦ったからこそ、伝統になる。

「ニッセイロールペーパー(株)」
本社・工場住所 〒204-0002 東京都清瀬市旭が丘1丁目266-13


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「ニッカン今井でございます」
今井貴久(いまい・たかひさ)
 1971年(昭46)3月25日生まれ。東京・神田出身。学習院大から94年日刊スポーツ新聞社入社。整理部を経て99年野球部へ。西武(99、03、04年)巨人(00~02年)遊軍(05、06年)阪神(07年)オリックス(08年)連盟(08年)横浜(09年)などを担当。09年11月電子メディア局(現メディア戦略グループ)に異動。通算乱酔は無数。月末は虎になる。

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